<3494>「所感(140)」

 『さかなのこ』と同じぐらい、近年で最も大きな影響を受けた映画が『明けまして、おめでたい人』で。

 

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 何故そんなに影響を受けたかと言えば、この映画が、自分の暗い核を、真正面から真っすぐに突いてくるものであったからだ。

 

 良い意味でこの映画を引きずり続けると、過去自分で結んでいる。

 

 

 「では、運命や宿命とは何かと言われれば、主としてその人と母親との関係で形成されてきたものだと思うのです。」(『真贋』p41)

 

 父親と上手くいっていなかった、ということばかりがフォーカスされ、はて、では母親との関係は如何なるものだったのか、ということを、上述の吉本さんの文章に触れるたびに疑問に思ってきた。

 

 今は違うが、子ども時代、一緒に生活するなかで見つめてきた母親の背中は、

 

 「相手選びを間違ったと感じていて、荒れている」

 

 ものだった。

 

 私は、父親に対する不信感や嫌悪もあったことから、そのかわいそうで、「間違った選択」をした母親に共鳴するような生をやってきた。

 

 自分のなかから父親や父親性を消したし、かわいそうで、間違われた生を送る被害者の側、母親の側なのだと自分を思うようにした。

 

 

 自分はかわいそうで、力のない被害者だという意識から、ひとたびやると決めたことには、楽しむのじゃなく、強迫的になる癖があった。

 

 これができなきゃ自分は捨て去られ、価値がなくなると思うから。

 

 だから、自分としては必死にあがいているだけなのだが、学校のテストなどで、当たり前に上の方に名前が出てくることに対して、何故か違和感があった。

 

 自分は焦っていて、何もできないと思っているだけだから。

 

 それで、周りの反応が、感嘆でも嫉妬でもなく、スーッと引いているようなものであることにも、ひどくショックを受けていた。

 

 自分は被害者でかわいそうなのだから、力があってはいけないからだ。

 

 

 自分の力が明らかになる場面が嫌いだった。

 

 今まで一緒に楽しくやっていた同級生の、顔がみるみるうちに曇っていくのを見ていられなかった。

 

 だから、ちょけた。おどけた。

 

 力があるように見えるでしょ? でもその実こんなにくだらない、ダメな人間なんですよ、としてみせることで、力のなさを取り戻そうとしていた。

 

 

 受け容れられたり、好かれたりすることが、一番の恐怖だった。

 

 自分には価値があることは、常に否定されていなければいけないし、好かれる要素を持っていることは、かわいそうである自分を棄損するので、耐えられなかった。

 

 普通に好かれ、普通に愛されることが、一番耐え難いことだった。

 

 今でもまだ、その類の目を見ると、ぞわぞわする。

 

 こわさがまだ、残っている。

 

 

 今でも普通に母親とは会うけど。

 

 物理的に離れて暮らしたり、それで時間が経ったりすることには不思議な作用が伴う。

 

 本当はそうではない、つまり、かわいそうでも、間違った生を送らされている訳でもない、ということには薄々、それこそずっと気がついていたけれど。

 

 それが完全に腹落ちするのには、この物理的な距離と、時間が必要だった。

 

 母親が、良い意味でただの1人の人として見えてくるから。

 

 

 父親も含め、母親も、別に、間違えたくてやったことではない。ただ、出会って、一緒にいて、結果、こじれて、それを引きずってきた、ただそれだけであるということ。

 

 若者が、その未熟さ故、上手くいかない物事を、複数抱えていた、ただそれだけであるということ。

 

 それで、かわいそうとか、間違ったとか、それはただ、母親という1人の人間の、解釈の仕方でしかないということ。

 

 それを踏まえて、自分がどうするかは、自由であるということ。

 

 

 過去の内心の焦りの結果でもある訳だが、その取り組みの果てに来て。

 

 今は、私は、どこから何をどう見たらかわいそうなのか、全く分からない人間に仕上がってしまった。

 

 勉強にしろ、体力、運動能力にしろ、食事の能力にしろ、他者とのコミュニケーション能力にしろ。

 

 昔は人よりできないと焦っていたから、などという前置きが、もうどうでもよくなるぐらいには、ギフトで溢れ返っている。

 

 力があるという事実と、向き合うこと。

 

 そこからしか、この先の生はない。

 

 また、能力云々に関係なく、生きていれば、訳が分からないまま人に好かれたり、受け容れられたりすることがあるという事実と、向き合うこと。

 

 本当は全部知っている。

 

 誰からも好かれないとか、分かってもらえないとか、愛されないとかの類が妄言で、自分が普通に人と関係を築けるという事実から、目を背けたいがために、その妄言を使っているだけであるということを。

 

 そのために、自分を好く人とか、愛してくれる人とかを、意図的になかったことにしてきたこととかを、自分は全部知っている。

 

 何であの人怒ってるんだろう、自分は何もしていないのになあ、なんて心のつぶやきが、かまととであることも知っている。

 

 好意に対して、良いとか嫌だとかでなく、「なかったことにしている」のを、相手は見ているからだ。

 

 それが人を怒らせることも、よく知っている。

 

 知っていて、やっぱりなかったことにしてきたのだ。

 

 自分が力があったり、かわいそうだったりという設定に、反するから。

 

 人との間に起こる感情を、なかったことにしないこと。

 

 あいさつする、別れる、好く、嫌う、関わる、離れる。

 

 それをすることが、人間の当たり前。

 

 なかったことにしてはいけない。