<3421>「所感(105)」

 全ての父親性の否定から立ち直ること。

 

 

 自分の父親が認められなかった。自分と血の繋がった人間だということが受け容れられず、父親に付随するもの、全てを否定しようとしてきた。

 

 父親が嫌いだということに留まらず、父親に関係する要素、全てを否定しようとしてきたのだ。

 

 そして、そんなことは無理だから、結果どうなったかというと、私は身体が上手く動かなくなった。

 

 何もアクションを起こせない人間を徐々に作り上げていってしまったのだ。

 

 

 それを、徐々にまた解く。

 

 父親と、父親に付随する要素/父親性は別であるということ。

 

 生身の父親は認められなくても、父親に備わっていたもの、それが明瞭に受け継がれているということ。

 

 その事実を徐々に身体に容れる。

 

 ダサかったり、情けなかったり、恥ずかしかったり最低だったりする部分も、自己の一部であることを、受け容れること。

 

 

 新しい環境、あるいは新しくはないけど誰も親しい人のいない環境で、スムーズにコミュニケーションを取って、溶け込む能力。

 

 歌の能力、人前で何かやれと言われても、何かやれてしまう能力、歌も含めて。

 

 そういう、人に好かれるけど、軽いと思われる、ただし強力な生き延びるための能力。

 

 それらは、明確に父親に備わっていた能力で。

 

 私はそれを、はっきりと受け継いでいる。

 

 そしてそういう力を発揮して、人気を獲得することを、恥ずかしいと思っていた。

 

 発揮した後、また卑怯な、嫌いな人間の能力を使ってしまったと後悔していた。

 

 

 そういった想いを、徐々に解いていく。

 

 

 血の繋がりというもののおそろしさ。

 

 生身の父親が、嫌いだとか好きだとか、能力を拒否するかしないかとか、そんなものを超えたところに血の繋がりはあって。

 

 そういうものを超えて、私のなかにはっきりと同じ能力が備わっている。

 

 

 私は私の父親性を否定しない。

 

 お前は、もっともっと、この能力に対して、開いていく。

 

 血の繋がりというものはおそろしい。

 

 自分の暴力、父親性を容れることは、私を社会関係のなかに積極的に置く作業のなかで、メインの作業に当たるのではないかと、今は考えている。