<3239>「所感(17)」

 何かすごく気になってるんだけどあんまハマり過ぎたら良くないって分かってることは、逆に短期間でぐっと詰め込んでやってみちゃう。

→熱しやすく冷めやすくを自前で作る感じ。

→ああこういうものかそんなに熱狂するもんでもないなとはっきり分かるためには短期間で嫌になるほどやった方がいい。

 

反対に、遠くに遠くに届かそう、長いこと継続的に付き合おうと思ってることは、じっくりじっくり、ほどほどに入る。

→入らなすぎたら火が消えちゃうし、入りすぎるとさっき書いた熱しやすく冷めやすくになっちゃうので。

 

上手く自分を燃すやり方は、おそらく生涯探りつづけることとなるでしょう。

ジャンルによって、自分との近さ重要度の違いによって、コミットの仕方を分けること。

<3238>「すすむ、むすぶ」

 かたるもの、

 またわたしまくの、まくから、

 からだかたちかわれ、

 すぐにさわぎ、、

 すぐにまどうような、

 ようすが少しずつ、

 ようすがまだ先に、、

 まどうまどうな、、

 おなじヒに見ていたこと、、

 しからばすぐ、

 からだかたちはね、

 わけ、

 わかるかたち、、

 はくはつ、

 はくろう、、

 しろいふたり、、

 しろい生き物、、

 

 からだたい、

 またもむすんですごす、、

 またじたい、、

 またすぐそこ、、

 ふくらんですごす、、

 うたいをもってすごす、、

 うたうかどのはた、

 かどから、、

 すごすものみずから、、

 みるもののなかから、

 まどうなか、、

 まどうことから、、

 まどううち、

 うちのことばのなか、、

 からだすでに、

 からだころぶなかから、、

 すでにゆすぐから、

 すでにうら、

 すでにからだはいる、、

 ものみずから、、

 ものみれていくから、

 ものうすれていく、

 ものたべる、

 ものまくれる、、

 ものかたちえらく、、

 すすんでいく、

 すすんでうつる、、

 

 あたしそとにながれ、、

 そとにあつめられ、、

 かたちのないことば、、

 かたちのないしるし、、

 いくつも、、

 視線を向けろ、、

 どこで、

 かたち向けるか、、

 かたち、ふくか、、

 分からなくなるとして、

 それでも・・・

<3237>「所感(16)」

 私のなかの「分からない」、にはいくつかの種類があって。

 

 それが、「分からない」をより分からなくさせている気がする。

 

 具体的に種類と言うと、

「本当に分からない」

→これは素直にそのままの意味で。

 

「分からないと言うことのよろこび」

→本当に分かっているか分かっていないかはどうでもよくて、何かに対して分からないとすること自体によろこびが発生するという、ちょっと変態的な要素。

 

「分かることを、分からないとすることによりはかどらせる」

→これは勉強などで特にそうで、分かると思って安心してしまうとそこで進歩がなくなるので、実際は結構分かっていて具体的に動けるあるいは解けるとしても、分からないとすることにより、もっと先へ進むというか。そのために「分からない」を無理に利用しているという感じ。

→結果勉強は捗るのだが、その技術が板につきすぎて、例えば試験中も、下手したら試験に受かったあとも、「本当は分からないんじゃないか」という不安がいつまでもつきまとうのが副作用としてあるかな。

 

 

 人生が先に進むときって私の場合は必ず同じパターンで。

→分かんない、新しいことが次々に押し寄せてきてキャパオーバー。それによりぐぐぐいっと気持ちが沈み込む。

→しばらくして消化できるようになって、快適に。

→また新しいこと出てきてキャパオーバーで、みたいな感じ。

 

 そうすると段々、キャパオーバーして気持ちが落ち込んでいる状態のさなかでも、

「あ、これ前に何回もあったやつ。このあとできるようになって気持ちすーっと楽になるやつ」

と分かるからどんどん楽になってきている。

 ここらへんは年取ったことの効能というか。

 人間が年数を重ねていくことには良い要素もあるよという一例かなと思ったりする。

<3236>「現実し、現実される」

 おくはた、

 さがすみずから、

 みず寄っていく、、

 そのとおり、

 そのとおり破裂して、、

 あたし集まっていく、

 何かの考えに寄せられて、

 浮かぶヒのは、

 揺るぎたいだけ、

 揺らいでいくのを、、

 ここで、

 ただまっすぐに見つめている、、

 とくひびくかたり、

 かたまり、

 かたちあうすべて、、

 

 からださす、、

 からだころげる、、

 あくるヒにまたながめ、

 よくふくまれ、

 よくあたらしくなる、、

 ものへすこし、

 からだをつづけて、

 わたしはうまく、

 ものごとをつづける、、

 うん、

 しずかにしみて、、

 うしろのえん、、

 なに、

 なかにささやくのを、、

 まったく見ている、、

 まったくつないでいるのを、

 しずかに見ている、、

 見てそだっている、、

 すこしかえす、、

 すこし距離を見る、、

 からだつくりかえす、、

 からだほうられて、、

 からだすぐに見える、、

 

 あれあなたする、、

 あたしかたちして、、

 すぐになかへ、

 なかへものそろうのを、、

 どんどん見て、

 どんどんかぞえて、、

 あたしみえる、、

 あたしどんどん先へ、

 少しずつ増えていく、

 少しずつかたまっていく、、

 あれひとつ育ち、、

 あれ少し流れる、、

 まだものをすこし知り、、

 現象のなかに駆けていく、、

 現実し、

 現実される・・・

<3235>「所感(15)」

今週のお題「勉強していること、勉強したいこと」

 

 今まで使い方が分からなくて使ってなかったけどお題があまりにもタイムリー過ぎたので。

 

 これで合ってるのかな?

 

 今すぐには役に立つわけではない、何の役に立つかも分からない、みたいな勉強って結構楽しくて、多分そういうのに潜るのも得意ではあるのだけど。

 

 ちょっと前まで社会にそっぽ向いてて、それをやめたのもあって、

「そういえば、今すぐ役に立つ勉強とかを、今までの人生で放置しすぎたのじゃないのかいあなた?」

などを思ったので、今年は簿記、それから仕事の関係で電気工事士の勉強をしています。

 

 資格も今年中にきちんと取れるようにします。

 

 結構今すぐ役に立つ系の勉強って、今まであまりやってこなかった分新鮮で面白い。すぐに実生活に関係してくるから臨場感もあるというか。

 

 

 人より先に恥ずかしい思いをしよう。その方が経験になるし勉強になるから、と思っているのだけど。

 

 皮肉なことにそのスタンスが板についてくると恥ずかしいこと自体が段々なくなってきて恥をかけなくなるというジレンマ。

 

 良いことだけどさ。

<3234>「そう、はく、ぼく、ふく」

 そうて、

 そうてそうて、、

 騒動、、

 かたち揺れて、、

 かたち茫漠、

 おんどりや、

 おうし、

 おうしこんだ仕込んだる、、

 からだだいてえや、、

 からだ瞬間手配、、

 瞬間時刻、、

 揺られてきてみいや、、

 あたしかどに、、

 あたしそとに、、

 あたしまさにふくらんで、、

 

 そこはこ、、

 そこ少しはこ、、

 はこはこ、

 からだはこ、、

 もどそう、、

 もどしおどろう、、

 踊りたいだけ踊ったらいいんですよ、

 あいし、

 もっと人間ぽく、、

 もっと先人ぽく、、

 ぽく、

 ふく、

 かたちふく、、

 かたちそとへつく、、

 あつまる、、

 あのひたい、、

 あのすごすひたい、、

 ものかたる、、

 もの様子へとつづき、、

 ものかたる、

 もの通る、、

 少しやすむ、、

 少しつくる、、

 

 あとのからだけ、、

 あと向かうさき、

 向かうはた、、

 これからすぐ、

 これからただに、

 おとのなかを行くと、、

 私はすぐ、

 私にかたれる、、

 かたちいかつく、、

 いろとおいもの、

 いろそれぞれのもの、、

 ぼくはく、

 ぼくかたちはく、、

 すく、

 すくもののなかを・・・

<3233>「所感(14)」

 よく何度も書いている通り、直近の生きるテーマが人を喜ばせることだが。

 

 遊んでいることの効能として、そういう世界に慣れるということもあるが、

「実際がどうであるということに関係なく、褒められたりちやほやされたりすると嬉しいものなんだな」

ということを身をもって知ることができる、ということがあげられる。

 

 最近ちょっとずつであるがその甲斐あって少しずつ喜ばせができるようになってきた。

 

 んで、結構これはやってみると楽しいことで、楽しいことだからわりと早い時期、10代ぐらいにそれができていてかつハマっていたことがあった。思い出したんです。

 

 んで、なんでそれに急ブレーキがかかってしまって、そのまま最近まで来てしまったかというと。

 

 喜ばせは楽しいのだが当然喜ばせていると予期していない好かれが発生したりする。

 

 今思えばそれは当たり前のことなのだが、当時は未熟すぎて、人を喜ばせているのが楽しいということと、自分も社会の一員としてそういう動きをしていたら、当然好かれることがあるということが、全く自分のなかで結びついていなかったのだ。変ですね。

 

 しかも、自分という人間が「好かれ」に関わるはずがないという変な思い込みがわりと強くあって、それは好かれたくない、好かれないと思い込むことによって何かを守っていたのかもしれないけれど。

 

 だから、不意に好かれてしまったとき、これは私はとんでもないことをしたと思って、喜ばせも、好かれることもぎゅいっとすごい力で封印してしまったんだ。極端だよね。

 

 

 今はだからまたその封印を解いてしまった感があって。

 

 この先の課題はおそらく、予期せぬ好かれの発生に対してどう人間としてあるか、喜ばせ続けつつ、というところになってくると思われる。

 

 攻めだけ学んで、レシーブを磨かなければ、上手な受けを学ばなければ、喜ばせ人間生活を続けられない。

 

 またぎゅいっと封印するループに戻るだけだ。それだけは避けたい。

 

 2回目だから、きっと前よりは上手く行く。年も取った。

 

 無意識に褒めや喜ばせが出てくるようになってきた。レシーブの練習。レシーブの意識。