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息子を亡くした両親が、その息子の精子を採取することを望み、その精子で代理母を介して子どもを産んでもらい、祖父母としてその子を育てようとする。
しかし前例のないその希望はなかなか受け入れられず、訴訟を続けること約三年半。
結果や如何に、は是非本編を見ていただけたらと思うのだが、いやはや大変興味深いテーマだ。
両親は何度も、
「息子の名を残したい」
と言う。
これが、宗教観とかの違いなのかなんなのか、しかし名前を残していくことがとても大きな問題なんだということは感じる。孫が欲しいよりも名前が残ってほしいという感じが強いのだ。
訴訟での争点は大体、実の親が存在しない子どもというのを、名を残したいという欲望で誕生させるのは子どもにとって不幸ではないか、というところに集まる。それは勝手な都合ではないかと。
しかし子どもを産むことなんて全て親の都合でしょうよ、と両親はぼやく。
あまりにもひどい状況とか、ひどい親であるとか、程度を考慮に入れる必要があるとはいえ、確かに親の都合で子どもは生まれる。
子どもは生まれる時代も、場所も、家族も、何もかもを選べない。
環境に放り込まれ、環境に翻弄されながら、なんとかやっていくものとして人の生はある。
子を求む人に対し、あなたには勝手な都合があるではないか、ということを突き詰めてしまうと、人は子どもを産むことが難しくなる。
子どもというのは、どんなところに生まれるにせよ、自分が選択すらしていないところに放り込まれて翻弄される存在である、ということを否定してしまうと、では子どもの立場を考えればどんな状況でも産まないことが善なのではないか、という場所に辿り着いてしまう。
先に述べたように、もちろん程度のことは考えなければならないし、今回のドキュメンタリーもその程度問題が絡んで来るから難しいわけだが、しかし争いのなかで違和感を覚えるのはやはり、
「こういう環境に生まれてくることが適切かどうか」
を争点にして、それに否を突き付けてしまうのは大変危険ではないか、というポイントになる。
実の親はいない。しかし祖父母はいる。そういう環境に生まれてくることは不適切ですよ、ということを、人間が判断していいものかどうかという疑問がある。
これは特殊な事例だからこそ争われているのだが、仮に特殊な事例でなくとも、
「この環境に生まれて果たして子どもは幸せなのか」
を問える状況というのは無数にあるだろう。私自身も自分の人生を顧みてそういうことを問うてみることがある。
そしてそれを問うてみるまでは良いのだが、実際に第三者が、場合によっては権力を持った第三者が、
「子どもにとっての当たり前の環境というのはこういうものなのですから、そこから外れる場合は子どもを求めないでください」
と果たして言ってしまっていいものだろうか、ということが、どうしても引っかかり続けた。
それが今回の事例のように、親がいないで祖父母だけがいる子どもが誕生する、という場合でも、それを不適切と決めるのは一体何に拠るのか、不適切だと言って許可しないでしまって良いのか、ということを考えてしまった。
答えは出ない・・・。