よく何度も書いている通り、直近の生きるテーマが人を喜ばせることだが。
遊んでいることの効能として、そういう世界に慣れるということもあるが、
「実際がどうであるということに関係なく、褒められたりちやほやされたりすると嬉しいものなんだな」
ということを身をもって知ることができる、ということがあげられる。
最近ちょっとずつであるがその甲斐あって少しずつ喜ばせができるようになってきた。
んで、結構これはやってみると楽しいことで、楽しいことだからわりと早い時期、10代ぐらいにそれができていてかつハマっていたことがあった。思い出したんです。
んで、なんでそれに急ブレーキがかかってしまって、そのまま最近まで来てしまったかというと。
喜ばせは楽しいのだが当然喜ばせていると予期していない好かれが発生したりする。
今思えばそれは当たり前のことなのだが、当時は未熟すぎて、人を喜ばせているのが楽しいということと、自分も社会の一員としてそういう動きをしていたら、当然好かれることがあるということが、全く自分のなかで結びついていなかったのだ。変ですね。
しかも、自分という人間が「好かれ」に関わるはずがないという変な思い込みがわりと強くあって、それは好かれたくない、好かれないと思い込むことによって何かを守っていたのかもしれないけれど。
だから、不意に好かれてしまったとき、これは私はとんでもないことをしたと思って、喜ばせも、好かれることもぎゅいっとすごい力で封印してしまったんだ。極端だよね。
今はだからまたその封印を解いてしまった感があって。
この先の課題はおそらく、予期せぬ好かれの発生に対してどう人間としてあるか、喜ばせ続けつつ、というところになってくると思われる。
攻めだけ学んで、レシーブを磨かなければ、上手な受けを学ばなければ、喜ばせ人間生活を続けられない。
またぎゅいっと封印するループに戻るだけだ。それだけは避けたい。
2回目だから、きっと前よりは上手く行く。年も取った。
無意識に褒めや喜ばせが出てくるようになってきた。レシーブの練習。レシーブの意識。