<4537>「所感(644)」

 身体はとても素直で。

 

 私が、表現することと心中する。

 

 自分の悪魔と心中する、という覚悟を決めると。

 

 別に、何の疑いも持たずに。

 

 あ、はいはい、そうなんですね~という感じで、淡々とその方向へ進んでいく。

 

 引っ張ってくれるし、付いてきてくれる。

 

 私は、覚悟を決めたはずなのに。

 

 その、身体のあまりの素直さに、ちょっとひるんでしまう。

 

 なんだ、覚悟を決めたのは確かでも。

 

 覚悟を決め切ってはいなかったんだなと、そういうときに初めて気がつく。

 

 身体は素直だから。

 

 私は、懸けた分だけを。

 

 ちょうど、覚悟を決め切った分と同じだけを、得ることになるだろう。

 

 それは、物でもない。

 

 名誉でも喝采でもない。

 

 それは、どこ、と指し示すことのできない。

 

 とても抽象的な場所だ。

 

 覚悟の度合いによって、私はどこに着くかが変わる。

 

 どの場所を得るのかが変わる。

 

 そういう予感がある。

<4536>「けげん」

 なぜ、

 こちらを向いて踊っているの、

 そういう問いかけが、、

 人間塗装面にぶつかる、、

 塗装面の奥で、

 振動を捉える私、、

 自己‐張り‐自己‐時空だ・・・

 身体招び、、

 今乃至内心情、、

 私の方へ向き、

 からだはすべてのその、

 行動のなかへ、

 はいる、

 当たり前だ、

 呼吸がすべて溶けて、、

 あたしは、

 時空の上へすわる、、

 日常背位だ、

 どこに目を向ける、、

 お前、大丈夫だ、、

 日常背位、

 戻ってきた、

 一致してきた、、

 なんだかだんだん、

 からだのための道生みが、

 ここで生まれるように、

 できているようなのだ、

 どこへどこへ、

 さて、

 このからだいつ、

 このからだ いつ生み、

 いつほどく、

 いつ知り、、

 いつさがす、

 ここに一量、

 ここに無限一量、、

 あなたの事など、

 その全てが入る、

 その全てが見つめる、、

 まだ満ちる、

 まだ満ちる、、

 まだステップする、

 まだあおぐ、

 まだ認証人間同士、

 ここへ、

 からだかくものを集めた、

 日常の音した、

 そういうものだ、

 そういうものだあなたのなかにいるのは、

 そうなのだ、

 人間がうなずいた、

 人間が、

 知られようのない速度で、

 こちらへ迫る、

 そういうことだ、そういうことだ、

 なあ、これは・・・

<4535>「所感(643)」

 3歩進んで2歩下がる。

 

 何も物が分かっていない若造の頃は。

 

 何でだよ、2歩下がるなよ、とずっと思っていたんだけど。

 

 そういうようにしか前に進めない。

 

 そうするよりほか、前に進む方法がないというのが、段々と分かってきた。

 

 3歩進むのは、風呂敷を広げること。

 

 どうもこんなことはできそうにないんじゃないか。

 

 ここまでは行けないんじゃないか、と思っても、とりあえず広げてみる。

 

 そして、その当然の結果として、2歩下がることになる。

 

 撤退を余儀なくされる。

 

 私は絶望して、何もかも失ったと思うのだが、しかし居る位置をよく見てみると、完全撤退にはなっていない。

 

 風呂敷を広げたときよりも、いつも必ずその一歩前の位置に居る。

 

 ああ、私の行ってきたことは、ただの失敗に見えていたけれど、これが唯一の進み方なんだということが、分かってきた。

 

 つまり、届かなく見えても、風呂敷を、それも、できるなら大風呂敷を広げなければならない。

 

 そして、当たり前に跳ね返される。

 

 しかし、完全には下がらされない、という形こそが、唯一の、前への進み方だったのだ。

 

 一歩一歩進む、というのは、大層な志を都度抱き、その都度ちょっと下がる、ということだったんだ。

 

 人生って、本当によくできてる。

 

 答え合わせをちゃんと後に取っておいてくれている。

 

 都度大風呂敷を広げて、その度にちょっと下がることが、一歩ずつ進むってことなんだよ、なんてのは、実際に人生を数十年生きてみなければ、決して分からないことだった。

<4534>「人間は道を帯びる」

 人間通路、

 あいろ、、

 少し溶ける、

 私の一枚、

 私の一量、

 その先、

 全てを見ている、、

 なに、

 人間童子、

 うン、、

 からだひく、、

 からだ、

 存分に剥かれて、

 ある、

 人間のはじめ、

 人間の水分、

 なにだか、

 存分に持っていく、、

 存分に喰べて、

 人間交通、

 それぞれ、

 先に住むものと、

 人間との、

 出会い、

 からだかたち、

 からだかたむき、、

 なかにあく、、

 なかに‐手‐あく、

 少ない量の、手が、

 はいる、

 はいるはいる、、

 人間凝視、

 人間カンバス、、

 匂いがする、

 人間が、手が、

 匂いがする、、

 からだはそれにうなずく、

 どこまでも、

 先へ先へ、

 その塗料、

 人間塗料、、

 人間は日々へ、

 それら垂らしながら、

 存する、

 存する、、

 ネ、

 からだ道負い、

 道、帯び、、

 たしかな電気信号、

 たしかなテエマ、

 ええ、

 それぞれ掘り下げる、

 それぞれ人間に知らせる、

 アタマ、

 カラダクビセナカ、

 かしげつつ通るよ・・・

<4533>「所感(642)」

 感情の起伏に左右されない鍛錬を。

 

 いついかなるときも一定量のトレーニングを継続できる、自己のマシーナリーな仕上げを。

 

 と、いうふうに人間をやっていると、必ず何回もよぎる疑いというのがあって。

 

 それは、主体の喜びはどこ?って言葉に集約されるんだけど。

 

 感情に左右されないで何度もトレーニングに帰ってこれるようになると、成果は挙がるのだが。

 

 自分というものがどこか置いてけぼりになるような感覚に上手く付き合わなければならなくなる。

 

 上手く付き合わなければならないというのは。

 

 この、主体の喜びはどこって形の疑いは、ちょっと厄介で。

 

 確かに本当に、自分が人間でなくなるのを危惧している側面も、あるにはある。

 

 だが、同時に、自己の鍛錬を、ただただ妨害するためだけに機能している側面も、その言葉にはあるのだ。

 

 どんどん機械じみて、人間でなくなってきているものを救う、主体の喜びを取り戻す、って物語設定は、あまりにも美しすぎて、危険だ。

 

 ただ怠けてやらないってだけのことを、見えなくする強度がそれにはある。

 

 しかし現状、休みたいとか怠けたいとか、人間的部分に属するものをほとんど失って、マシーナリーに仕上がりすぎているのも確かだ。

 

 完全に人間でなくなる日は、思いのほか早く来て。

 

 多分もう、そのときは、自分が完全に人間でなくなったことにも、気がつかないのだろう。

 

 そこにはおそろしい強度のマシンだけがポツンと残る。

<4532>「日常腔‐日常芯」

 居たな、、

 居た、

 それなり、

 体温が走る、、

 この二重の光景、

 私は、

 人間を混ぜて、

 ここに育っていった、

 風を、

 日常腔に受けて、

 すべては、

 しずかに洗われていった、、

 迫る、、

 人間が息をつく、、

 人間がはじの方へ生まれる、

 どこに、

 からだ起こすことになろう、

 あなたは、

 日常芯、

 日常ためごとのための、

 からだを残す、

 からだは全て、

 その記憶、

 その身そのもとへ、

 はっきりと下がり、、

 はっきりとよみがえる、、

 からだがつくられ、

 日常狭間、

 どこからどこまで、

 このテエマ、

 この手合いは成る、

 この集中は、

 この育ちは成る、

 この回転は、

 どこに来る、

 どこに埋まる、

 人間が増えて、

 しらずに、、

 形埋まる、

 形相互、

 操縦、

 人間の手のひら、

 生まれ、

 人間はこぼし、

 相応拾い、、

 今はここ、

 今はここのヒの求め、

 うン、、

 からだ同時に在る、、

 からだいくらもきこえる場所に、

 ありえて、

 人間は使う、、

 人間はテンポ、、

 これらのまとまり、

 よく見て、

 よく下がる・・・

<4531>「所感(641)」

 簿記は野球と同じ。

 

 勉強というより、キャッチボールや素振りに近い。

 

 何度も何度も同じ動きを繰り返して。

 

 こんな、基本的なこと繰り返してて、一体できるようになるんかな、と思っていると。

 

 いつの間にか、自分のなかに土台が作られている感じ。

 

 それにより静かに訪れる感動。

 

 得たカタルシスが、小学生のとき野球が突然上手くなったときと一緒。

 

 他の試験は、受かっても落ちてもなんか手応えがなかった。

 

 必要なこと憶えて、だから受かって。

 

 必要なこと憶え切れてなくて、だから落ちて、みたいな感じ。

 

 簿記は違う。

 

 技術が土台として下の、見えないところからモリモリっと持ち上がってきた感覚。

 

 良いとか悪いとか、出来てるとか出来てないとか、やる気のあるなしに関わらず。

 

 淡々と当たり前に毎日練習できるかが全てってところも。

 

 ものすごく野球っぽい。

 

 人生で、第二の野球を見つけたような感じがする。

 

 のめりそう。

 

 というかのめっている。