<4044>「所感(408)」

 落合さんが移籍するとき。

 

 自分を一番高く買ってくれる球団に行く。

 

 と公言したらしい。

 

 私はその優しさを想う。

 

 去られる側も、来てほしいと願いつつ結果的に振られる複数の球団側も。

 

 一番金を多く払うところに行くって話なら、ムカつきはするかもしれないけれど、選んでくれない理由はああだったんじゃないかこうだったんじゃないかと、他のことを憶測しなくていいので、ズルズルダラダラと引きずらなくて済む。

 

 ああ、あそこが一番高い金を提示したんだな、と思うだけだ。

 

 

 優しさを見せること、優しくあろうとすることが、時に特大の悪を為すことがある。

 

 私は基本的に浅村という選手のことが好きだ。

 

 真面目だし、どっか痛めてても試合に出続けるし、口数は少なくても後輩の面倒見は良いし。

 

 西武から去り、大型契約を獲得して、もっと適当に、上手く休んだりしてもいいところを、そうしない男気があるので、どうしても嫌うという気持ちにはなれない。西武からいなくなっても今でもずっと好きだ。

 

 ただ、移籍するとき、人を、ファンをズバッと切り捨てるようなことが言えないその

優しさが、逆に裏目に出て、結局特大の悪を為す結果となっていた。

 

 ファンは、もしかしたらこの人は残るのかもしれないという期待感だけをいたずらに抱き、それは見事に裏切られた。

 

 最初から移籍が既定路線だったのなら、人に期待を持たせることは本来言うべきではなかった。

 

 一番条件が良いところ、自分にとって一番魅力的な環境を提供してくれるところに行きます、とはっきり言った方が、どんなに優しかったか。

 

 その一言があるだけで、ファンはいらぬ想像をしなくて済む。

 

 でも、それを言えないのもなんとなく分かる。

 

 それを言ってしまったら、ファンの人たちを傷つけるのではないか、申し訳ないような気がする、という優しさが、ズバッと切り捨てることにブレーキを掛けるのだ。

 

 そして結果、はっきり言うよりももっとひどい結末を迎えることとなる。

 

 

 はっきりと俺はこうすると言って、相手に落胆されたり、相手を怒らせたりすることはこわい。

 

 だからついつい取り繕って懐に入って、でもあとで苦しくなって、ごめん本当はそうじゃないんです、とやってしまい、相手を大きく失望させる。

 

 そういう過ちを私も何度も繰り返してきた。

 

 でもそれって、優しいようにみえて全く優しくないんだよな。

 

 嫌なことを言わなくていいように、自分を守っているだけ。

 

 

 前にも何回か書いているんだけど、私は、相手が自分と相性が合う人の場合、それが初日の数分で分かる。

 

 バチっと音が鳴るような感覚だ。

 

 本当を言えば、そういう人とだけ付き合っていたい。

 

 あとの人とはあんまり喋りたいことがない。

 

 ゼロレベルでない。

 

 しかし、それでは社会でやっていけないので、どんな人ともある程度コミュニケーションが取れるように、自分を鍛えてきた。

 

 そうすると必然的に、いろいろな人と、とりあえず話してみたいとナチュラルに思っている人よりかは、コミュニケーションは上手くなる。あえて鍛えてるわけだから。

 

 しかしそれは過剰適応を生む。

 

 結果的に、ゼロレベルで話したいことがない人たちから、コミュニケーションをよく求められるようになり、苦しくなる。

 

 相手は、なんで私が苦しそうにしているかが分からなくて戸惑う。

 

 苦しさが極まって、最終的に私から関係を切ったりすれば、当然だけど関係を全く持たなかったよりも、その人たちを大きく傷つけることとなる。

 

 過剰適応が悪を生んでいる訳だ。

 

 これは全く優しくない。

 

 相性が合う人以外であれば、ゼロレベルで話したいことがない自分の特質を知っているなら、たとえ大多数の人に最初の段階で嫌がられようが、別にそんなにコミュニケーションを取るのが好きではないことを、下品ではない方法で伝えるべきだ。

 

 自分の特質に嘘をつかない方が、結果的に自分にも相手にも優しさを発揮することとなる。

 

 弱さから、相手にいらぬ期待をもたせておいて、その梯子を外すのが、結果一番残酷な行いだ。

 

 もう大人だから、コミュニケーションの量だってもっと自分から調整できるはずだ。

 

 相性が合う人以外と長々喋るのは苦痛だと、はっきり自分自身で認めるべきだ。

<4043>「日常低波-方法/演劇演劇!」

 演劇性の道、向こう、

 日常からわずかに声放る、

 声向こう、、

 あたしすべての糸、、

 からだのためごと、、

 きく、

 どこをさぐりつさぐりつして、

 からだはここへ着くのか、、

 よく揉んで、

 よく解体しておくれ、、

 あなたは不思議な時刻に立つ、、

 よく見える、、

 よく日常低波、

 からだかたち見える、、

 からだかたち動く、

 どこからこの道この形、

 うごいてくる、

 からだ噛んでくる、

 日常方途、

 さぐりつさぐりつ、

 どこに行くかなんて、

 私は問わない、

 私たちは問わない、

 決まり文句が、

 うるさくなってきたな、

 どこかで結論されたことの繰り返しが、

 少しずつ、

 うるさくなってくる、、

 あたしはもうその回答を、

 卒業したのかもしれない、、

 ただ人間が、

 世界を作っているだけ、

 ただそれだけのことだった、

 私が力を入れて構えたり、

 緊張していたりするべき何ものも、

 実はなかった、

 全て虚構だった、

 お遊びお芝居、、

 なにだこれ、

 全てが演劇、

 演劇性の道、、

 着なきゃならないものを、

 一通り着てみて、

 それらを脱いで、

 私は裸を自称しない、、

 なんでもない、こんなもの、

 と明らかになってはじめて、

 物を作る人に、本格的になっていく、

 物を作る人を、

 自然に見つめるようになる、

 情熱なんてない、

 感動なんてない、、

 私には黙って生きる人間の、

 手の動きが映るだけ、

 手の動きが、

 あたしの集中を誘うだけ・・・

<4042>「所感(407)」

①本当は訳分かっている

 

 私の人生本当に複雑に物事が絡み合ってきて、訳わかんなくなってきたなあ、などと調子乗りで言ってるけど。

 

 本当はどんなに物事が複雑に絡み合おうが、訳は分かっている。

 

 これは昨日も書いたんだけど、分からないことを良しとする価値観というか、その方がカッコイイと思っていたことによる。

 

 でもそれちゃんと副作用もあるというか。

 

 いや~いろいろありすぎて訳分かんねえっすよ、とかカッコつけて言っていると、最初は冗談だったのに本当に訳が分からなくなってくることがある。

 

 気を付けよう。

 

 訳分かってるから。

 

 

②考えるためか、考えないためか

 

 若いときとか、人生の始まりの方では。

 

 分からないことが多い、どうしてどうして、という内発的な衝動によって本を読んでるんだけど。

 

 大分年取って大人になると。

 

 考える材料を得るためではなく、むしろ考えないために本を惰性で読んでることに気がついたりして、おや、と思って立ち止まったりすることが増えてくる。

 

 どういうことかというと、ただ自分の不安に同調してもらうためだけとか、焦りに意味を与えてもらうためだけとか、そういう動機で本にしがみつくというか、考えないために本を頼りにしたり、ということが出てくるのだ。

 

 沢山読んできて、自分もいろいろな経験をして、当たり前だけど関係性が変化したのだ。

 

 意識的に、自分で考えるということを取り戻し、いやそれでもなおここは考えきれないな、というところに、プラスアルファで読書が乗っかってくる、という形を作りたい。

 

③善悪に対する美意識

 

 愚痴って結構一般社会で当たり前に使われる。

 

 しかし私は、たとえ自分が被害を実際に受けていたとしても。

 

 相手を悪者に仕立て、こちら側を圧倒的な善に置き、そうすることによって「善側」で連帯感を作る、という一連の構図が生理的に受け付けないので、やらない。

 

 愚痴をやらないのは、人の悪口を言うとテンションが下がるからなのだと自分で思っていたが。

 

 本当はそういう簡単な善悪の構図を作って連帯する、という仕組みが苦手だったのだ。

 

 私は悪くないよね、あなたは私の味方だよね?

 

 うん、誰が何と言おうとも私は完全にあなたの味方だよ。

 

 というコミュニケーションの形を取るのがおそらく家族でも友達間でも恋人間でも当たり前なのだろうが。

 

 俺はそんなに無邪気にあなたを私自身を、善だけとして受け取れない、と考えてしまう。

 

 相手に加害性がある、それは修正されたり場合によっては罰されたりしなければならないのは分かる。

 

 それはそれとして、別に私もあなたも無邪気に善ではない。残酷さも、冷酷さもある、と常から思うので。

 

 完全に自分たちを善側に置いて安心するコミュニケーションはしんどい。

 

 それは嘘だな、と思ってしまう。

 

 愚痴が苦手なんじゃなくて、無邪気な善的連帯が苦手。

<4041>「からだが畳んである」

 かたちある、

 しずかな面、、

 しずかなつくりの、

 ましょうめんに、

 あなたが入る、

 それは容易なわざなのか、

 どうか、

 わたしにはたしかな風景か、否か、

 ここか、

 身体どこかに溶けて、

 眠って、

 置いてきてしまった場所、

 身体すぐに、

 あくを成してここにいる、

 あれはてた、

 あたしは血や涙なのか、

 本当に、

 どうだろう、、

 すこしずつこの成分、

 この拾い、

 この浮きこの止まり、

 顔は、誰、、

 あたしがある時間に死んでいること、

 ある極大に、

 からだが死んでいること、

 からだが畳んである、、

 しずかに、

 この少なくなるための光景、、

 私は一量そこに保存し、

 見事に確かめる、

 からだしずかに枠を成し、

 そこへつづける、

 誰だ誰だ、

 そこへからだ片付けつづける、

 誰だ、

 そこへ畳み続ける身体、

 その持ち主、

 そのもの、、

 あたしは見てるようで見ていない、

 人間の包括、

 人間とうに揃う、

 人間食べている、

 人間バラバラ、

 過去にじむ地、

 にじゅう記憶、

 うるさい、

 ここはとても静かですが、

 身体が、

 どこまでもうるさく、

 どこまでもつながる、

 わたしの目の前に、

 垂れている心臓、

 垂れている心臓、

 吸引する、

 すべて吸う、

 すべてなくなるまで・・・

<4040>「所感(406)」

 ①ものをなくすという方向で片付けを見つめると変なことになる。

 

→例えば本とかも、ただ捨てる、新しいのは買わないとかになる。

 

→アクティブなものだけを持つという方向で考えると自然にものが減る。

 

→必要なものは買う。その上で、引っ越すときだけでなく都度整理する、手入れする癖をもつこと。

 

 ②脳に入力をぐちゃぐちゃに送りすぎ

 

→分からない分からないと言っていた先達に憧れて、分かるものもわざと分からなくさせてた節があるな、と気がついた。

 

→シンプルに考える。分かることとかモノってもっと多いはず。

 

→別に奥を探そう探そうとしたってそこまでの奥ってそうそうないよってこともある。

 

→アクティブなものを持つようにするってことと関わりがあるけど、自分にとって今ホットなものを容れればそれでいい。

 

→こんな関わり方したら飽きるかなとか、一切考えなくていい。

 

→たとえ飽きても、ホットなものにホットなタイミングでぐっと入り込んだ経験は後々振り返っても身になってる。

 

→義務感でインプットしないこと。ホットなものにホットなタイミングで!

<4039>「層-一点」

 ありものをすぎる手、

 ありものと二重手と手、

 はこびざらい、

 はこび、三昧、

 簡単装置、

 簡単息吹、

 日常に、

 きこえつづけたものたち、だけでこの地上に、

 集まっては流れる、

 集まってははしゃぐ、、

 ゆるめている、、

 私はこんなに少なかった、

 私は、

 ただの肉体だった、、

 何かを肩代わりしてもらっていた、

 それをやめて、

 少ない身のなかで、

 流れる、、

 人間は何も、

 新しくなっていない、、

 情報の掛け算の、方法が、

 増えただけ、、

 人間はもっとずっと古いもの、

 これだけ、

 形携えてきたのだから、

 といっても、

 少しずつ溶け、

 少しずつ要らない、

 少しずつ要る、

 少しずつ含む、

 代謝、

 からだに容れて、

 からだに残っておかないで、

 流れて流れて、

 その轟音、

 光の反射などにより、

 私に残るいくらかの印象、

 確信、

 そういうものがあればいい、

 ねえ、あたしたち、

 別れましょう、

 という言い方はあまり好きではない、

 別れます、だよな、

 決めたのなら、

 相手に投げ掛けるべきことなど、

 ここではなにもないはずだ、

 別れます、と言おう、、

 あたたかくなった、

 礼をしよう、、

 食べてばっかりいたらいけない、

 食べたものは通過してくれなければね、

 どこを向いている、

 これは、

 どこを目掛けている、、

 絞るのではなく、

 コアを掴むこと・・・

<4038>「所感(405)」

 なんで世の中の大人ってのはパーパーしないで落ち着いていられるんだっていうのが長年の疑問だったけど。

 

 正負両方のいろいろな経験を経て。

 

 まだやったことないことは無数にあるけれども、とは言ってもそれらがあんまりパターンの外に出るとか、構造にあてはめられないってことはなくなってくるにつれ。

 

 ああ、特別構えなきゃいけないものってほとんどないんだな、ってのが実体験を通して分かってくると。

 

 ようやく落ち着き出し始めるということが分かってきた。

 

 良い意味でも、悪い意味でも、何も思わなくなってくる。

 

 だからパーパーしないし変に構えない。

 

 リラックスできる。

 

 成功しようが、失敗しようが、それ自体には大した意味がないということが分かり始める。

 

 そんなことより、ひとりの生が続いていて、その続いていることによってまた誰かと初めて会える、あるいは旧知の人々にまた会えるっていうことそのものの意味の方が、圧倒的に大きいということが分かってくる。

 

 生きている意味って、初めて会えること、また会えることなんじゃないかな。

 

 途切れてしまったら当たり前だけどもう会えない訳だから。

 

 また会える、新しく会える、それがあれば良いんです。

 

 あとは全部大したことがないんだって気がする。