<85>「歩く足がある間」

 つまり過去や未来というものに考えを巡らせたときのあの苦さ、それは、記憶や想像される絵によって喚起されるのではなく、過去や未来という言葉にある違和感、この場にまるでそぐわない感じから来るのではないか。ないものに振り回されて酔っ払っている、全て払って、つまりはないもの、ここにはそぐわないものを導入しなければ成立しないのだから、そもそも私は誰でもない。人の噂で話が延々と続く、そのときの私のなさとはまた違う、そのときは私がないからやはり気持ちがいい、だが基本的には嫌な心持ちだ、気持ちいいからついついやる、自分のことを、その間だけは棚に上げていられるので癖になる、のべつやっている、もう止める力もないというところに、知らぬ間に至っていたら怖いなあ・・・。ダメだと切り捨てたり、激賞したり、そういうことは全く虚しいように感ずる。誰かに切り捨てられたり激賞されたからといって、日々が留まる訳ではない、その事実の方が大事ではないか? あの人はまだまだ歩いていかなければならない、そこへ来て切ったり持ち上げたりしていても仕方のないような気がする。腰を上げなければならないのだ、私はあなたではないし、私でもないのだから。