<86>「良さと難易」

 良いということがまず初めにある、どうやって感じているのかは分からないが、ともかくも良いと感じられるという事実があって、対象が難しかったり易しかったりするというのは、別にそれほど問題ではない。良いと感じ得たものがたまたま易しいものであったからといって、易しいものが本当で、本当にいいものなら易しくあり得るはずだと話を進めていくのは早計だ。良いと感じられるということと、対象の難易度とはほとんど別のことだ。つまり、分かるということすら関係がないということ、分からなければならないという訳ではないということ、もちろん、分かろうとする姿勢はまた別のところで必要になってくるのだろうが、分からなくてもいいのではなく、良いということに、分かるとか分からないとかは関係ないということ。不安だから、分かるとか分からないとかではない、良さを感じる人の心だけが大切である分野に、基準を持ち込む、そしてそれを持ち込んだ人や後からその基準をクリアしていった人が権威になり、人のただの愛好に対して口を出し、基準から外れているからセンスが欠けていると決めつけ、こちらが設けた基準に従って歩いてこなければ、歩いて最後は権威者と同じような好みに落ち着かないのならば、とてもこの分野を愛好しているなどとは言えない、そんなことは絶対に言わせませんよ、となるこの不毛、くだらなさ。ただただそういう基準と関係なく愛好している人を上から見下ろしたつもりになって笑っていて、恥ずかしくはないのだろうか。