<84>「悲劇のないおそろしさ」

 過去や未来というものと、時間をいっしょくたにして考えることには無理があるのかもしれない。違う場所だったら決して見つかることのなかったものが、次々に見つかること、空間の重なりという考えが否定される。呼吸をどう考えたらいい? 膨らんではヘコんでを繰り返すリズムに、前後、さっきとこれから以外の見方を身につけられるか、ただ回っているということをそのままに捉えることには、いくらかの困難が伴う。そう、立っている場所も違えば、行動する時期も違って、何より、人ひとりひとりの姿形がまるで異なっていて、自分以外の要因というものが大きく作用する空間内にいて、アドバイスというものほど不毛なものもない。何らかの共通する正解、こうすればこうなるという道筋をくれ、という欲望の、驚くほどの強さ、頻発する悩み相談、特異であるということを受け容れなくてはならない。だからね、やっぱり、などと言いたがるが、偶然にしろ予言が当たったという快楽に酔いしれたいだけで、厳密に言えば何も、本当に何も分からない。悲劇というフレーム、悲劇的状態があるのではなく、そのように見せるフレームがあるだけだ。どんな幸福者でも、このフレームに囲われたらあっという間に不幸に見えだす。それは見せかけなんだよと言ってまわることが、フレームを外してまわることの方がより残酷なのだと聞かされて、半分納得したようなまだ納得していないような・・・。悲劇にしろ、ないよりはいい、そういうことか、ないということが怖ろしさとまるで同じになるのは何故だろう? あるということに信を置きすぎているのかもしれない。