<2880>「『PERFECT BLUE』」

 シアタス調布にて。

eiga.com

 

 これで今敏監督の劇場映画はとりあえず全部見れたのかしら。

 

 この作品はう~ん、なんと形容したらいいのか。笑

 

 『千年女優』を先に見ていたので、

「ああ、『千年女優』は随分複雑に、現在と映画内映画と回想と妄想とを混ぜ合わせたものだと思っていたけれど、『PERFECT BLUE』に比べると、かなり分かりやすく交通整理されている作品だったんだな』

という感想を持った。

 

 結末を言うとネタバレになってしまうので言えないが、『PERFECT BLUE』は、結末を分かったうえでも、なお、

「ええと、ということはあのシーンは、どこの、誰の、何だったんだ?」

と、迷子になる場面がとても多かったように感じた。

 

 『千年女優』に繋がっていくところの、現実と、映画内映画と、妄想と、ループとを混ぜ合わせる手法で作りたいという、その原液をそのまま表現したような映画だった。

 

 生のものをそのまま食らったので、衝撃度という意味では、『パプリカ』よりも、『千年女優』よりも大きい。

 

 ただ個人的な好みで言うと、『千年女優』の方が好きかなあ。

 

 ただ、『PERFECT BLUE』は、今後何回も見て、逐一、

「あれはどこの、誰の、何のなかなのか」

を確認しようとしたくなる部分はある映画だ。

<2856>「『MEMORIES』」

 アマプラにて。

www.shochiku.co.jp

 

 「彼女の想いで」「最臭兵器」「大砲の街」のオムニバス。

 

・「彼女の想いで」

 三作の中では一番好きでしたね。コンセプトが良いというか。

 宇宙の片隅に、記憶を保存する機械が浮いてて、現実の人間がその幻想世界のなかに取り込まれるっていう、底なしに怖いけど気持ちが良いっていう感じ。

 

・「最臭兵器」

 そんな訳ないだろ、が最後まで続く感じだが、それが不愉快でもなんでもなく、やりたいようにめちゃめちゃにやってるなあ、と見ていて爽快感を覚えるような。単純に楽しい話。

 

・「大砲の街」

 ブリキの人形たちが人形劇を繰り広げているような、不気味かわいい感じ。戦争もずっと続いているとルーティン的なもの、生活的なものにこういうふうに取り込まれていくんだなあ。

 

 

 そういえば、見ていてもあまりAKIRAのことは想起しなかったなあ。

 でも、「彼女の想いで」と「最臭兵器」を合体させるとちょっとAKIRAっぽくなるかな。

 いや、やっぱり単純に足したらAKIRAが出てくるというもんでもないような気がする。

<2841>「『千年女優』」

 リバイバル上映を、MOVIX昭島にて。

www.fashion-press.net

 

 いやあ~良かったですね~!

 劇中にLotusが出てきたので、

「お、ということは主題歌はLotusですね~」

と思ってたら、LotusはLotusでも、Lotus-2の、ロタティオン?でしたね。こっちの方は初めて知りました。

 

 結構好きだな。『パプリカ』と同じぐらい好きだったかもしれない。

 

 私たちは、何か手に入るものを追いかけているのではないのかもしれない。

 どこに辿り着くのか、果たしてどこかに辿り着けるのか、それすらも分からず、ただ一心に、大事なものを握り締め続けてきたら、私たち、随分と、遠くまで来られたんだ。

 そして、もっと先まで、たとえその先に何かがあってもなくても、私たちは行けるんだ。

 

 女優さんの、回想や出演作品がごちゃまぜになって、今は過去の、どこの何のなかにいるのか分からなくなる演出に、平沢さんの音楽世界がピッタリとはまっていて心地良い心地良い心地良かったよ。

 

 『PERFECT BLUE』もこのままの勢いで見たいですね~。

<2820>「『東京ゴッドファーザーズ』」

 アマプラにて。

www.sonypictures.jp

 

 今敏監督作品は『パプリカ』以来なはず。

 

 それぞれのキャラクターが抱えている背景自体はとても重たいのだけれど、全体的に馬鹿々々しくて楽しく、疾走感もありハラハラしながら見られる映画で、見終わった後の感じとしては、

「純粋に楽しかったなあ」

という感じ。

 

 時間も一時間半と比較的短めで、サッと見るのにとても良いのではないでしょうか。

 

 絵の感じを見て、また『パプリカ』も見返したくなったなあ。

<2794>「『市子』」

 呼吸が、上手く出来ない。

happinet-phantom.com

 

 過去は関係ない。そんなものとは関係なく、今を生きることができるんだよ。

 全くもってその通りだ。

 

 過去がどうであろうと、あなたは今から幸せに生きていいんだよ。

 全くその通りだろう。

 

 だが、あった過去を殺し、なかったことにし、スルリと滑り出てきて成り立たせることの出来る、普通の、幸せな今とは何だろう。

 

 居たはずの人がおらず、居なかったはずの人がいる世界で、普通の生活を送れるということは、一体どういう種類の、どういったことを指すのだろう。

 

 過去はどこまでもついてくる。

 それが、身体の世界にいるということで、身体の世界を完全に離れたビジョン、景色を夢見、成り立たせられるように思えても、そこは、遅かれ早かれ退散しなければならない場所となる。

 

 私の身体との、繋がりが何にもないからだ。

 

 普通に生きるということが、想像出来ないのではない。

 普通に生きるということが、あらゆる意味で、身体的に不可能になった場所から、生を始めなければならない、ひとつの、いや、複数の生があったのだ。

 

 私は全てを振り払いたかった。

 全てのものを振り払って、普通に、自由に生きたかった。

 でも、私は皆と同じように、替えの利かない身体だった。

 全てを引きずる身体だった。

 そこだけは、何故か周りの人々と平等だった。

<2600>「『A』~アジアンドキュメンタリーズ」

asiandocs.co.jp

 

 私は当時まだ3歳か4歳くらいのものだったので、リアルタイムの空気感というものはほとんど分からない。

 ただ、すごい騒動だったのだという話を、親から聞いていただけだ。

 

 なんとなく、触れるのがこわいというか、触れてはいけないような気分もあって、オウムに関するものは特に見たり調べたりもしてこなかった。

 

 ふとしたことで、このドキュメンタリーを見た。

 

 見て思ったのは、

「これは、数千年単位、あるいは数万年単位の、古い、そして普遍的な問題だ」

ということだった。

 20世紀後半にだけ限定される問題ではないと思った。

 

 つまり、現世否定的な部分が人間には必ずあって、またそのなかにある、現世とは別の場所に「本当」を見て、そこに向かって一心に修行し、現世の方には目もくれないという、そういう人間の過激化の方向というのは、今までも、これからも、綺麗に拭い去ることができない、という問題があったのだ。

 

 オウムの一連の事件に新しさがあったとすれば、それは、

「人間の進歩によって、こういう問題には付き合わなくてよくなるんだ」

というお話、思い込みが、見事に破られてしまった、というところにあるのかもしれない。

 

 人間社会は、個人は、こういう現世否定的な、いうなれば陰の部分から自由になることはできないんだということを思い知らされる。

 

 穏やかに社会と調和しているように映る仏教だってキリスト教だって、必ずこういう過激な部分を持っていて、それが何千年というときを越えて、今にも生きている。

 この問題がいかに人間の根本とかかわっているのか、ということの良い例ではないだろうか。

 

 

 このドキュメンタリーで印象的なのは、まず第一に教団側とマスコミ、警察、一般人との間で、コミュニケーションが失敗し続けていることだ。

 

 それもそのはずで、現世肯定をもとにする立場と、現世否定をもとにする立場の断絶というのは決定的であり、そこにコミュニケーションの成り立つ余地というのは少しもないからだ。

 

 例えば現世肯定同士で、その肯定の仕方がどうにも違っている、というのであれば、そこにコミュニケーションが成立する余地はある。

 

 だが、そうではないのだ。なのでこの両者は、常に緊張関係に置かれ続けることになる。

 コミュニケーションの余地のないところに、コミュニケーションが成立するはずだという思い込みを持ち込み、最終的な解決を得たいと思えば、その帰結は、潰し合いという形を取るしかないところまで行かざるをえない。

 

 一連の事件の勃発も、おそらくそれ以上の意味はないのだと思う。

 

 もうひとつ印象的なのが、信仰に際しての、師弟の問題で。

 

 ドキュメンタリーに出て来る人の話の中で、

「尊師(麻原さんのこと)がどんな人間であるかは関係がない」

「修行のためのシステムがここ(オウムのこと)より整っているところというのはおそらくないんじゃないか。だからここにいる」

というような話があった。

 

 つまり、信仰というのは、ひとえに、信じる人の問題であり、信じるという形で生きることを切望している人が、いつのどの地域にも必ずいて、いわゆる教祖と言われる人は、その切望に応える、また応える形での仕組みを作れればそれで良いのだということが分かる。

 

 なので、

「あなたたちはそんなにも崇拝していますけれども、あの人はそんな崇拝されるような人ではないんですよ」

という暴露を繰り返したところで、信仰する、という形で生きる人にはそれは何の意味も持たないのだ。

 

 「蒟蒻問答」という落語がある。

 修行者が、こんにゃく屋のおやじさんの適当な身振りを見てすら、そこに何か深いものを読み取っていく、という、なんともおかしみのある話なのだが、なんのなんの、これは信仰というもの全てに通ずる姿なのだ。

 対象が立派であったり、深かったりする必要は全くなく、

「私が深さをそこに見ることが出来るか否か」

だけが、修行の、信仰の問題なのだ。

 

 

 オウムを解体することにより、現代に生きる私たちは、

「またオウムが何かするんじゃないか」

という恐怖感とは付き合わなくてよくなったかもしれない。

 

 しかし、現世否定的な、しかも過激に現世否定的な部分が人間にはあり(誰も例外ではない)、そういった人間の陰の部分と付き合っていくことは、おそらくこれからもずっと終わらないだろう。

<2591>「『踊るボリウッド』~アジアンドキュメンタリーズ」

asiandocs.co.jp

 

 インドに関連するものを見ると、毎回『シャンタラム』を思い出してしまう。

 ボリウッドに何かを見て、仕事をしにやってくる外国人の役者さんなんか、まさにそうではないだろうか。

 

 それにしても、インドの、映画だけには限らないのかもしれないけれど、派手さと熱量はすごいですね。

 

 どちらが良くてどちらがダメということもないのだが、日本人だと、この派手さとか、欲望に対するストレートさみたいなものに対すると、見事に照れてしまうだろうな、というようなことを思う。

 

 その照れのなさがなんとなく羨ましいような、そうでもないような。