<2600>「『A』~アジアンドキュメンタリーズ」

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 私は当時まだ3歳か4歳くらいのものだったので、リアルタイムの空気感というものはほとんど分からない。

 ただ、すごい騒動だったのだという話を、親から聞いていただけだ。

 

 なんとなく、触れるのがこわいというか、触れてはいけないような気分もあって、オウムに関するものは特に見たり調べたりもしてこなかった。

 

 ふとしたことで、このドキュメンタリーを見た。

 

 見て思ったのは、

「これは、数千年単位、あるいは数万年単位の、古い、そして普遍的な問題だ」

ということだった。

 20世紀後半にだけ限定される問題ではないと思った。

 

 つまり、現世否定的な部分が人間には必ずあって、またそのなかにある、現世とは別の場所に「本当」を見て、そこに向かって一心に修行し、現世の方には目もくれないという、そういう人間の過激化の方向というのは、今までも、これからも、綺麗に拭い去ることができない、という問題があったのだ。

 

 オウムの一連の事件に新しさがあったとすれば、それは、

「人間の進歩によって、こういう問題には付き合わなくてよくなるんだ」

というお話、思い込みが、見事に破られてしまった、というところにあるのかもしれない。

 

 人間社会は、個人は、こういう現世否定的な、いうなれば陰の部分から自由になることはできないんだということを思い知らされる。

 

 穏やかに社会と調和しているように映る仏教だってキリスト教だって、必ずこういう過激な部分を持っていて、それが何千年というときを越えて、今にも生きている。

 この問題がいかに人間の根本とかかわっているのか、ということの良い例ではないだろうか。

 

 

 このドキュメンタリーで印象的なのは、まず第一に教団側とマスコミ、警察、一般人との間で、コミュニケーションが失敗し続けていることだ。

 

 それもそのはずで、現世肯定をもとにする立場と、現世否定をもとにする立場の断絶というのは決定的であり、そこにコミュニケーションの成り立つ余地というのは少しもないからだ。

 

 例えば現世肯定同士で、その肯定の仕方がどうにも違っている、というのであれば、そこにコミュニケーションが成立する余地はある。

 

 だが、そうではないのだ。なのでこの両者は、常に緊張関係に置かれ続けることになる。

 コミュニケーションの余地のないところに、コミュニケーションが成立するはずだという思い込みを持ち込み、最終的な解決を得たいと思えば、その帰結は、潰し合いという形を取るしかないところまで行かざるをえない。

 

 一連の事件の勃発も、おそらくそれ以上の意味はないのだと思う。

 

 もうひとつ印象的なのが、信仰に際しての、師弟の問題で。

 

 ドキュメンタリーに出て来る人の話の中で、

「尊師(麻原さんのこと)がどんな人間であるかは関係がない」

「修行のためのシステムがここ(オウムのこと)より整っているところというのはおそらくないんじゃないか。だからここにいる」

というような話があった。

 

 つまり、信仰というのは、ひとえに、信じる人の問題であり、信じるという形で生きることを切望している人が、いつのどの地域にも必ずいて、いわゆる教祖と言われる人は、その切望に応える、また応える形での仕組みを作れればそれで良いのだということが分かる。

 

 なので、

「あなたたちはそんなにも崇拝していますけれども、あの人はそんな崇拝されるような人ではないんですよ」

という暴露を繰り返したところで、信仰する、という形で生きる人にはそれは何の意味も持たないのだ。

 

 「蒟蒻問答」という落語がある。

 修行者が、こんにゃく屋のおやじさんの適当な身振りを見てすら、そこに何か深いものを読み取っていく、という、なんともおかしみのある話なのだが、なんのなんの、これは信仰というもの全てに通ずる姿なのだ。

 対象が立派であったり、深かったりする必要は全くなく、

「私が深さをそこに見ることが出来るか否か」

だけが、修行の、信仰の問題なのだ。

 

 

 オウムを解体することにより、現代に生きる私たちは、

「またオウムが何かするんじゃないか」

という恐怖感とは付き合わなくてよくなったかもしれない。

 

 しかし、現世否定的な、しかも過激に現世否定的な部分が人間にはあり(誰も例外ではない)、そういった人間の陰の部分と付き合っていくことは、おそらくこれからもずっと終わらないだろう。