決して到達しない

 「知らないということを知っている」

という意味ではない形で、知と不知との奇妙な併存を感じている。つまり、何も知らないという外縁の感覚に支えられて、中心に、そのことをちゃんと理解しているという気持ちを養えているのではなく、中心に、絶対到達不可能な形で全知らしきものが据えられていることが分かっていながら、果たしてそれが何であるかを外縁では捉えることが出来ず、しかし漠然とした、それでいて強力な全知の感覚は中心に確かにあり、それでも外縁は、それについて考えていながら、それに指の1本すら触れる事を許されないでいる、という奇妙な、交流のない共存があるということだ。

 中心にあるその感覚は、他の誰とであっても皮膚レベルで共感することは出来ないという意味において、絶対的に私のものでありながら、反対にその実、私の手の届く範囲に無いという事実から、どこまでも私のものではないかのような感じを抱かせる。そして前述したように、考えを続ける外縁は、その中心をなぞることすら不可能だ。

 私のもののようで、その実私のものではないその中心が、ともかくも全知のようなものを据えていることが分かっているのなら、もう徒に外縁でもって考えを巡らすことなどやめてしまったらどうか。答えはもう既にあるのだから。しかし果たして、そうしたところで中心と触れあうことが出来るようになる訳ではなく、考えることをやめた外縁は、届かない中心を前に立ち尽くすだけなのである。

 何らかの答えを中心に持ちながら、それに決して到達することのない外縁は、一体誰の為にその、虚しい、考えるという作業を続けているのだろうか。