今、角幡さんの『43歳頂点論』を読んでるんだけど。
面白い。
これからの十年を照らす本かも。てか本だ。
自分が今33歳で。
22、23歳〜32、33歳の十年間が、人間としてグズグズであることを自覚した上での、自分の人生の土台を築き上げる作業だった。
傲慢で、方方に迷惑をかけたけど。
今後社会と積極的に関わるかどうかは、一旦完全に無視した十年だった。
んで、土台を築いて、社会と積極的に関わると決めて。
しかし、私個人のプライベートの生き方はどうなんだ、と。
ちょっと祭りの後で、階段の踊り場をうろちょろしていたけれども。
こっからの十年は、ピーキングの十年だ。
書くだけじゃない。
体力も、労働も、勉強も、何もかも、全てピークに持っていく十年だ。
十年先を見据えて、ゆっくり、しかし休まずに押してゆく。
43歳でちょうどピークに達した後、下山するか、下山せずに頂点でおさらばするかは、一旦考えなくていい。
頂上の一点だけを見つめてゆく。
まあ途中で死ぬかもしれない。
それはしょうがない。
本にも書いてある通り、生き切りたい、頂点に到達したいという欲望は、死にたいと思っていないのに、知らず知らずのうちに死を招びよせている。
本の中で、頂点で死んだ人の話が複数出てくる。
私は、それを見て、羨ましいとも、愚かだとも思わない。
ただ、そうしか生きられない人がいて。
何かに、向こうから掴まえられ。
意味や合理を越えて、それを追わざるをえなくなった人がいて。
どこかで死に捕まるはずのそのどこかが、たまたまここだったんだな。
という、事実のその圧倒的な静けさだけを見ている。
私のなかで最近、この本のような、燃え尽きたい生き切りたいという欲望と、バーンアウトすることに対する恐怖感との葛藤が、大きな関心を占めている。
私は三島さんの生き方を無視できない。
それはやはり憧れからでも、唾棄し去りたいという欲望からでもない。
ただ、あの人の激しい幕切れの、静かな重みを受け止めているだけだ。
三島さんは、頂点から、下山しないことを選んだ。
吉本さんは、しがみついてでも長く生きていくことを選んだ。
三島さんはすごい人だけどやっぱり天寿を全うしなかったじゃないかと言う。
談志師匠は、年を取ったら芸がどんどん良くなるなんてウソウソウソ、と冗談めかして言っていた。
頂点を過ぎたことを自覚し、なお生きなきゃいけない苦しさを、高座では隠さずに真っ直ぐに伝えていた。
志ん朝師匠が死んだとき、良いときに死んで羨ましいと、苦しそうに語っていた。
三島さんが死んだとき、やろうやりやがった、と言い。
死にたい死にたいと言いながら、老いぼれて痩せこけていく姿を最後まで全部見せていった。
人は各々の生のなかで何かしらの頂点を極める。
私にはまだ、下山のことはよく分からない。
2035年11月18日。
私はその日を、頂点の目安の日として置いてみようと思う。
私が登っている山は何なのか。