<3321>「所感(56)」

 職場の同僚から、親の介護が大変だという話をきいて、やっぱり生きることと死ぬことについて自分も考えてしまった。

 

 生きることと死ぬことを考えるときに、まあ対話をするとまではいかなくても真っ先に私が顔を思い浮かべるのが三島由紀夫だ。

 

 

 三島さんは、戦時中の、今日明日にも死ぬかも分からない状態が、幸福だったと言っている。

 

 だから戦争をしろという話にはならないし、言いたいことはそういうことでもないだろうけれど、現代の、レジャーの幸福など、そういういつ死ぬか分からない幸福にくらべればなんでもないという話は、人間も生き物である以上、馬鹿にならない気がする。

 

 

 いつ死ぬか分からない状態は、負担がでかいから、取り除かれた。

 

 そうしたら、幸福も、遠くなった。

 

 

 三島さんは武士道の話をする。

 

 ただ、話を聴くたびいつも思うのは、三島さんの場合、

 

 いざとなったらいつ死んでもいいような覚悟を持つ

 

 という領域に、

 

 自分は死におくれたからはやくどこかで死にたい

 

 が濃厚に滑り込んでいるように感じるのだ。

 

 

 私も、現代においてさえ、というか現代だからこそ、いざとなったらいつ死んでもいい覚悟を持って生きることは大事だと思う。

 

 というか個人的にそういう腹を据えて生きる姿勢は好きだ。そうじゃない姿勢より。

 

 ただ、それに、

 

 じゃあ今日死のう

 

 とか、

 

 出来るだけはやく死にたい

 

 を混線させないように、安きに流れないようにしつつ、いざとなったらの精神を保ち続けるのはなかなか困難なことだとも思う。

 

 ふたつは全然違うことだと思うけど、簡単だからすぐ、

 

 じゃあ今死んだっていいじゃん

 

 ってところまで、人間は飛んでしまう。

 

 

 まだ今は分からないけど、ある線引きをこえたら私は死ぬつもりである、という覚悟を、どこかでもたないと、こういう諸々が壊れた世界で生を十分に活かし切るのは難しいのかもしれない。

 

 長生きしたいというより、よりよく燃えたい。