<1725>「時間が見えなくなって」

 このぐらいやったら変になる、と思うのは、

 このぐらいやったら変になる、と妙なところで決めているからではないんですかね、

 と妙に思い始めた、

 全然身体はびくともしていないというか、

 構造の強さを思う、

 

 想像力を駆使する、なんていって、

 例えば、今通っているところが廃墟になって、というのはつまり今から何十年も何百年も時間が経ったと想像して、

 今通っているところを眺めてみる、

 とまったくピンと来ない、、

 それでまた反対にというか、実際に何十年も何百年も待たずに廃墟になってしまって、というか空き家になってしまって、

 そこを訪れるような機会が出来たとしてですね、

 以前の、人がそのなかで動いていたさまを上手く想像してみようとしても、

 それは出来ないだろうと思う、、

 想像力を豊かにして、とそれはもう空想のようになって、

 現実はこれとは違うだろうな、

 生身の人間の現在性っていうのはそういうことですわね、

 それで、消えちゃうと、会わなくなると、よく分からなくなる、

 

 こういうとらえどころのない、

 ひどくぼやぼやした、コミュニケーションではない、それからは少し遠い言葉が出ると、

 もう少し若いときなんかは、

 「おいおい、コミュニケーションに戻れよ」

 なんて思ってイライラしてしまっていたけれども、

 いまは、

 「あ、『私』の領域が、飛び出して来た」

 当たり前だけれどあなたも『私』として生きているんですよね、

 と、またそこで途方もない時間のなかに入ることになる、

 

 現実時間が次々に身体を通り、なかに入り、

 層を成しているとすればこれは途方もないことですよね、、

 そういえば、これは創作かもしれない、

 決してその当時の感覚ではないかもしれないけれど、、

 まだ自分が小さい子どものとき、

 親を含めた大人の、混線したようなほうけかた、

 遠ざかりかたが、

 層の重なりの少ない私には何のことだか分からなかった、

 という経験が、

 ぽつぽついくつかあったような気がしている、、

 不思議なことがある、、

 

 私はまだ幼い頃の遠出の際、

 ぼうっと草はらの、だだひろい風景を眺めてぼうっとし、

 この時間がずっと先まで運ばれることを意識した瞬間を憶えているが、

 それを何をしているのだろうと見つめていた親は、

 こんなところまで記憶が持ち越されると思いながら眺めていただろうか、

 あ、この人はこの姿勢のままで、先まで行くのかもしらない、

 なんぞという感覚が走って、

 それもすぐスケジュールの、現実の計算の中にかえっていったかもしれない・・・、