『心はこうして創られる』を読んでいる。途中ではあるが、もう既に感銘を受けている。
つまり、人間の心に深さなどなく、つまりどこか奥深くに真実を宿した心があるわけではなく、心は徹底的に表面であると。
そしてその表面上でその場その場の即興劇を繰り広げるのが脳の働きであると。
その劇の材料はどこから持ってくるかというと、過去の記憶の蓄積から持ってくると。
それでなるべく一生懸命に現在と過去との辻褄を合わせようとする、上手くそういった物語を作ろうとするのが人間の脳の働きなんだと。
いやあ、面白いな。
それで私が今これを受けて何を考えているかというと、ずばり「夢を持つこと」についてであって。
例えば、夢を持つという語りのなかには、
「信ずれば、あるいは信じて努力すれば夢は必ず叶う。だから皆夢を持とう」
というものがあって、これが一般的な語り方だと思う。
しかし私は、努力すればとか信ずれば叶う方式の、現実世界での社会的成功を基準にした「夢を持つこと論」には大した意味はないと思っている。
社会的成功という様々な偶然が絡み合うものに対して、何かをすれば必ず式に必然を説こうとしているのでそれほど価値があるとは思えない、というのがその理由だ。
しかし想像的次元が上手く機能しなければ現実的次元が上手く働かないという意味で夢を持つことを説くならば、それは大いに意味があると思える。
つまり、前述の通り、人間は現在と過去との辻褄合わせを絶えず行っている生き物であり、ということはその都度その都度丁寧に物語を編み直しつつ生きていくのが人間であるということだ。
そうすると、その必死の辻褄合わせが上手くいかない、あるいは変な方向に辻褄が合わさってしまうと、その人の生というのは途端に苦しくなってくるだろうことが容易に想像される。
現在と過去とが上手く合わさって機能しなくなるからだ。
いっかなドライに生きようと努めても、人間は時間的な存在であって、必ず年を取り、必ず年を取るということは絶え間なく過去が生まれる。
過去に起きたことのいくつかは深く記憶に残り、深く記憶に残ったものは現在の私に覆いかぶさってくる。そうすれば私は現在と過去とを上手く繋ぐことを考えなければならない。
いや、考えなければならないと思うまでもなく、脳はそれをやってしまうものなのだろう。
辻褄を合わせる作用が生きていく上で必須ならば、想像的次元での創造を絶えず考えることは、それによって現実的次元にどのような作用がもたらされるかを考える、ということをも含むので、とても重要な作業になるのではないか。
つまり、想像的次元と現実的次元の折り合いが悪い場合、想像的次元での、物語の編み直しという作業が必要になってくるのではないだろうか。
今の私は想像的次元でどのような夢を見たら、現実的次元に良い作用をもたらせられるか、ということを考える、ということだ。
それが、夢を持つことの意味ではないだろうか。
夢の内実は、途方もなくても、とても些細なものであっても、それ自体は別にどちらでもいい。
大事なのは、想像的次元の夢の持ち方が現実的次元をよく活かしているかどうか、ということなのだ。
よく、妄想などは悪いものとして扱われ、誰かが妄想を抱いていたら、それをすぐさま解除することが良いことだとされているように思えるのだが、妄想においても注目すべきは、妄想の内実ではなく、それが現実的次元を活かす在り方なのかどうかということではないだろうか。
もし現実的次元を損傷するような形で妄想が機能しているなら、妄想を解除するのではなく、創造力によって物語の編み直しを図ることの方が建設的ではないだろうか。