私は~派だと決めてしまうのは勿体ない

 物の考え方、思想、芸術、ライフスタイル等々、何でも良いのですが、

「私は~派だ」

と決めてしまうのは少々勿体ないような気がします。

 例えば、ライフスタイルの話で言うと、

「物に囚われない質素な生活を好む」

ということならば全然構わないと思うのですが、自分のことを、

「質素派だ」(そんな言葉無いかもしれませんが・・・笑)

と決めつけてしまうと、選択可能性を無理やり狭めることになるような気がしてしまうのです。

 というのも、確かに物欲から離れた居住まいというのも、ある種快適ではあるかと思うのですが、もし仮に(物欲と言えども種類がありますが、この場合は「本」とします)、本だけはたくさん集めたいという欲があった場合に、

「私は質素派だから」

と自分のことを決めつけてしまっていたら、本当の心の内は、本だけは収集したいと思っているのに、自分のライフスタイルに反するから集められないということになって、結局、

「~派だ」

というのが、自分の欲望を制限することになり、狭めなくて良い選択の幅をわざわざ狭めている結果になってしまいます。

 自らの欲望、好みに合うから、

「~派だ」

と名乗っていたはずなのに、

「~派だ」

というのが、自分の欲望より優位になってしまっては、本末転倒です。

 ただ、それだけ、

「~派だ」

という縛りは、自己にのしかかってくるということでしょう。

 こと学問においても、本当は、

「もっと知りたい」

という純粋な知的好奇心から出発しているはずなのに、同分野で有力な二人の学者がいたとすれば、その後に学生が二分してそれぞれの学者に連なるような形で、お互いに、

「A派だ」「B派だ」

と分かれて対立してしまうことは、非常に勿体ないような気がします。

「私はA派だから、意地でもB派の考えは受け容れない」

となってしまっては、せっかくB派の考え方からも得るところがあったかもしれないのに、それでは当初の、

「もっと知りたい」

という純粋な知的好奇心がないがしろにされていて、勿体ないです。

 ですから私は、

「~の方を好む」

という姿勢はあって良いし、むしろ自然だとも思いますが、

「~派だ」

とむやみに決めてしまう必要は無いのではないかと思います。