<2470>「自分の欲望を上手く捉えることは」

 私は、話したいと思っていたのだろうか。話したくないと思っていたのだろうか。

 

 自分の欲望を正確に掴まえることは難しい。

 中学生くらいのとき、

「私はもっと話したいのに、私と話していると、クラスメイトが途中で遠慮するように話すのをやめてしまうのが気掛かりだ、何故だろう」

と思って悩んでいたことがあった。

私は話したいのに、と。

 

 そんな悩みを持ちながら、他の場面でクラスメイトたちと話していると、たまに、

「あ、私はもう話すのをやめたほうがいいかな」

と思わされることがたまにあることに気がつく。

 

 そのときの相手を見ると、明らかに「内側に閉じている」のがよく分かる。だから、これ以上は入っていけないような感じがして、その先を、遠慮せざるを得ないのだ。

 

 そういう経験をして、やっと、

「ああ、私も同じように、明らかに内側へ閉じているから、話しかけてくるクラスメイトも途中で遠慮していたのだ」

ということに気がつけた。

 私にこれ以上話しかけてほしくない、というメッセージをクラスメイトは受け取っていたのだなと。

 

 でも、ちょっと待ってほしい。

 私は、話したいと思っていたはずではないか。

 そうして、その欲望には全く反するような欲望を、身体が、全く私の知らないところで実現しているという状況がある。あった。

 この場合、私の欲望はどこにあるのか。

 私の欲望はどちらなのか。

 もっといえば、私の欲望はどちらかが本当でどちらかが嘘だと決めることが出来るものなのか。

 

 ちょっと前なら、

「身体というのが本当の素直な欲望で、意識はそれを上手く捉えきれていないがため、思ってもいないことを欲望するのだ」

という形で片付けていたと思う。

 

 でも今は、そのように考えていない。

 欲望は、素直な形で矛盾なく、短い一文で表せるようなものとして、ある訳ではないのではないか。

 というように今は思っている。

 

 つまり、具体例に寄せれば、話したいと思っていたことも、話しかけてこないでほしいと思っていたことも、紛れもない本当の欲望だったのではないかと思うのだ。

 もっと言えば、そんなのどちらでもいいとか、あるいはそのことについて何も考えていないであるとか、そういうものが雑多に混じり合ったものが欲望というものの実相に近いという感覚がある。

 

 よく、

「素直になれよ」

という言い方を見聞きすることがあると思う。

 私は昔から、これを言われると戸惑ってしまうのだったが、何故戸惑うのかまでは分からなかった。

 

 でも今は、少しだけ分かる。

「素直になれよ」

は、まさに、

「お前の欲望を、短い一文で、矛盾のない形で表明せよ」

という要求なのだ。

 だから、欲望というものを雑多なまとまりとして感覚している側の人間がそのメッセージを聞くと、

「お前のなかにあるその欲望から一部分を切り出して、ここに我々の納得の行く形として提出してみせなさい」

と言われているような気がしてしまう。

 そして、そういう形で表された欲望は、たしかに私のなかの欲望の一部なのだが、それはどこまで行っても一部でしかないから、とても不完全なものに映るのだ。

 そうすると、いわゆる社会的に「素直」な表明をして、それにより、

「素直になったじゃないか」

という反応を持って受け容れられると、とても居心地が悪い。

その欲望は嘘ではないのだけれど、結局一部でしかないから、相手に対してどこまでも嘘をついているような気持ちになってくる。

 社会的な文脈を排して(つまりすぐに納得出来るような形で提出しろという要求を排して)、自分の欲望に本当に素直になろうと思うのなら、雑多なもの、絡み合いすぎてすっきりとは表し切れないものに、あくまでも粘り強く、時間をかけて付き合っていく必要があるのではないか、という気がしている。

私の欲望とは何なのか。