<1751>「無限の現在に居て」

 自殺が、

「命を粗末にする/してはいけない」

「将来というものがあったのに」

という語り方をされるのが変だと思うので、その次第を以下に述べる。

 

 まず時間意識。

 人間は現在にいる。今にいる。それ以外の時間にいることは出来ない。

 過去を、現在とは異なる時間として想起することは出来ても、具体的な時間として過去が、現在のようにここにあらわれる訳ではなく、その過去の具体的な事柄のどの時点であろうと、全て「現在の私」が「今」だと感じながら通過してきている。

 つまり、私は、現在以外の時間にいた、という感覚がない。

 少し遠めの過去を想起して、そこに居る私と今の私が明らかに違うと認識出来ても、「現在にしかいたことがない」という時間意識が変わるものではない。

 つまり、夢や希望がないという意味ではなく、将来というものはそもそもどこにもないし、辿り着くこともない。

 ただ無限の現在があるだけなのだ。

 

 次に、命を粗末にするしないに関して。

 無限の現在にいる人間には、将来という場所はない。

 どこまで行っても今である。それは無論意識の話。感覚の話。

 現実の時間は動いている。2021年6月13日が流れて、次に2021年6月12日が来ることはあり得ない。必ず次は2021年6月14日になる。動いている。

 しかし私にとっては6月13日も、6月14日も、今としてしか経過することが出来ない。どこまで行っても今である。

「そう焦らなくてもそのうち死ぬんだから、自殺なんて馬鹿なことはやめなさい」

 理屈としては正しい。全くその通りである。しかし人は自殺する。そう焦らないで辿り着く何十年先も、今日も、意識の上では今であることに変わりがないからである。

「まだ生きればたくさん時間があるのに死んだら勿体ない」

 そうではない。たくさん時間があるのにそれらは全部、どこまで行っても今だから死ぬのだ。

 この無限の現在、どこまで行っても今であるという感覚を払うには、死ぬしかない。その欲望は他の諸々の欲望にも増して大きなものだと思う。

 命を粗末にするから死ぬのではなく、命自体の大きな欲望のひとつとして死があると考える方がしっくりくる。

 死ぬことを考えるとき、この世とおさらば出来るから嬉しいとか、それは表面的な喜びであって、死ぬこと自体が、命が持つ何よりも大きな欲望のひとつだから震えるほど嬉しいのだと思う。

 

 残された者の言葉として、

「どうして止められなかったのか」

「どうして防げなかったのか」

と出るのは感情として正当だから何も言うことはないが、人間一般の自死を考えるときには、

「無限の現在を払うという大きな欲望は、何故大概の場面においては阻害されているのか」

という順序で考えた方がものは分かりやすいと思う。

 つまり人間というのは自分から死なないのが当たり前で、時折何かの間違いがあって自殺する人が出てしまう、というように私はものを考えないのです。

 無限の現在にいる人間は死を大きな欲望として持っているのが当たり前で、しかしそれはなんらかの理由で大半の場合は阻害されているのだと考える方が人間というものがよく分かると思える。

 阻害要因は色々あるでしょう。

 色々ありましょうが私に関して言えば、間際に苦しかったり痛かったりすることを思うと本当に涙が出るほどこわいとか、現在を払うといっても払った先はどこなのかが分からないと思うとおそろしくて仕方ないとか、まだちょっと肉が食いたいとか、あの本の後あそこの本も読みたいとか、もう一回、いや一回と言わず何回かは友達に会いたいとか、野球を見たいとか、まだ、いやもっと書きたいとか歌いたいとか踊りたいとか、そういうのが、何かこう色々とあるんでしょう。