「扇動されるな」というのは土台無理な話

 よく、演説が上手いだけの人が圧倒的な支持を受けたときに、

「ああいうものに扇動されるな」

ということが言われますが、それは無理な注文です。何故なら、聴衆は、

「よし、熱狂しよう」

「この人に扇動されよう」

と思っている訳ではなしに、感情を揺さぶられていつの間にか扇動されているからです。扇動されるというのは、随意ではなく、不随意なんですね。

 「では、聴衆は、演説が巧みなだけの人間に扇動されたままではないか」

ということに話が及んでくるかと思いますが、そこをどう処理すれば良いか。

 既に述べたように、扇動されることそれ自体は仕方ないです。意思というものを越えたところで起こる働きですから。大事なのは、扇動された後、聴衆が自らでもって、

「私自身の、あの熱狂はなんだったのか?」

ということを、すぐに点検するようにしなければならないということです。演説で語られていた内容が、本当に素晴らしいものであって、信頼に足る人物だと思われたから熱狂したのか。はたまた、その場の空気、演説者の語り口調、調子、雰囲気によって、なんとなく熱狂させられたのかを、熱が冷めた後にすぐ分析しなければ、安易に扇動者を信用し過ぎる結果をもたらしかねません。

 また、たとい語られた内容がいかに素晴らしかったとしても、それは演説をするために用意された言葉であるから、ある程度素晴らしいのは当たり前であって、その後、扇動者が実を伴うかどうかということについては、疑いを持っておくという姿勢も大事でしょう。