<2643>「啄木の詩人観」

 

 私はかつて日本語学校に勤めていた。

 いよいよそこを辞める段になり、ひとりの文学好きの生徒が、餞別としてくれたのがこの本だった。

 あまり短歌に親しまないので、誰かにもらわなければ一生手をのばすこともなかったかもしれない。

 しかし何かの縁があったからこの本も私のところにまで来たのだろう。

 

 そこで、ひとつひとつの歌を筆写してゆくことにした。

 前にも書いたが、詩集や歌集は基本的に筆写で付き合うことにしている。

 それが身体に入れる一番いい方法だからだ。

 

 結果的に、この本は私に大きな影響をもたらすこととなった。

 私の中で既に起きつつあった変化に、決定的な最後の後押しをしたと言ってもいいかもしれない。

 

 

 私は詩を書く。

 私の中で既に起きつつあった変化とは何か、と言えば、

「詩は、どちらかと言えば訳の分からないもの、得体のしれないもの、技巧的なものであるべき」

という認識から、

「詩は、その人自身がよく表れているべきもの、はっきりと表れているべきもの」

という認識への移行を言う。

 

 何故この変化の最後の後押しに啄木が関係があるのかと言うと、まず第一に、私は筆写していくなかで、良いと思った歌に〇をつけていったのだが、後でそれを確認すると、意味が分からない歌や得体の知れない歌に全く〇の印を付けていない自分がいることに気がついたからなのだ。

 

 この歌集のなかにも、何が言いたかったのかが分からない歌はいくらもある。もちろんそういうものが入っていていけないということはないし、意識の混濁も、得体の知れなさも、十分歌の材料としては機能し得る。

 しかし肝心なのは、

「私自身がその箇所には注意を向けなかった」

という事実なのだ。

 

 そしていまひとつは、何といっても啄木自身が表明する詩人観とでも言うべきものに、いたく共感する自分を見出したことが大きい。

「詩は所謂詩であつては可けない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。従つて断片的でなければならぬ。」(『一握の砂・悲しき玩具』 新潮文庫 p261

 

 もちろん、この啄木の詩人観は、ただひとつの正解ではないと思う。

 日常生活、己の心情とは完全に隔絶した、純技巧的な表現、それこそ詩である、という指針の導き方も、またひとつの正解、その人の固有な世界を形作ることは大いにあり得るし、私もそのように思ったこともある。

 

 ただ、これも前述のように、私はそういった観念に、

「今は何も思わない」

ということが重要で、むしろ啄木の詩人観の方にこそ、強く頷く自分がいるということだけが肝心である。

 

 

 「一握の砂」「悲しき玩具」「拾遺」から、それぞれ少しずつ引用しよう。

 まずは「一握の砂」だが、便宜として、テーマを、

「日常の隙間にふと挟まる感慨」

「悲哀」

「懐古」

の3つに分けた。

 

 「日常の隙間にふと挟まる感慨」

・箸止めてふつと思ひぬ

 やうやくに

 世のならはしに慣れにけるかな (上掲書 p33)

 

・何すれば

 此処に我ありや

 時にかく打驚きて室を眺むる (上掲書 p48)

 

・ふと見れば

 とある林の停車場の時計とまれり

 雨の夜の汽車 (上掲書 p142)

 

 「悲哀」

・わがこころ

 けふもひそかに泣かむとす

 友みな己が道をあゆめり (上掲書 p63)

 

・ふるさとを出で来し子等の

 相会ひて

 よろこぶにまさるかなしみはなし (上掲書 p69)

 

・その膝に枕しつつも

 我がこころ

 思ひしはみな我のことなり (上掲書 p117)

 

・かなしみの強くいたらぬ

 さびしさよ

 わが児のからだ冷えてゆけども (上掲書 p155)

 

 「懐古」

・ひさしぶりに公園に来て

 友に会ひ

 堅く手握り口疾に語る (上掲書 p151)

 

 次に「悲しき玩具」だが、例によってテーマを、

「日常の隙間にふと挟まる感慨」

「悲哀」

「懐古」

「元気」

の4つに分けた。

 

 「日常の隙間にふと挟まる感慨」

・この四五年、

 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。

 かうもなるものか? (上掲書 p177)

 

 「悲哀」

・どうなりと勝手になれといふごとき

 わがこのごろを

 ひとり恐るる。 (上掲書 p163)

 

・考へれば、

 ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。

 煙管をみがく。 (上掲書 p165)

 

・やまひ癒えず、

 死なず、

  日毎にこころのみ険しくなれる七八月かな。 (上掲書 p204)

 

 「懐古」

・古手紙よ!

 あの男とも、五年前は、

 かほど親しく交はりしかな。 (上掲書 p178)

 

 「元気」

・すつきりと酔ひのさめたる心地よさよ!

 夜中に起きて、

 墨を磨るかな。 (上掲書 p162)

 

・年明けてゆるめる心!

 うつとりと

 来し方をすべて忘れしごとし。 (上掲書 p166)

 

 最後に「拾遺」だが、テーマは、

「悲哀」

「懐古」

の2つとした。

 

 「悲哀」

・怒れども心の底の底になほ怒らぬところありてさびしき (上掲書 p227)

 

 「懐古」

・故郷の谷の谺に今も猶こもりてあらむ母が梭の音 

・月夜よしただ二柱神ありしその古の静けさ思ほゆ (上掲書 p216)

・たゞ軽く笑ひ捨てたる其昔の友の言葉の此頃身に沁む (上掲書 p224)

 

 

 啄木は、当たり前に生活していると、ふと間に挟まってくる、何とも言えない感慨、人に話したってどうってことはない、相手の人だってリアクションに困ってしまう感慨を、大事に握りしめていた人で、私にはその気持ちが痛いほどによく分かって分かってしょうがない。

 

人は誰でも、その時が過ぎてしまへば間もなく忘れるやうな、乃至は長く忘れずにゐるにしても、それを思ひ出すには余り接ぎ穂がなくてとうとう一生思ひ出さずにしまふというやうな、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験してゐる。多くの人はそれを軽蔑してゐる。軽蔑しないまでも殆ど無関心にエスケープしてゐる。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。・・・・・・・・・・・・・・・

 さうさ。一生に二度とは帰つて来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。 (上掲書 p264,265)