<2320>「山本陽子さん」

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 私は生きているときにふと、

「山本陽子さんはどんなふうに清掃の仕事をしていたのだろうか」

と考えることがあるが、すぐにまた、

「いや、言葉の毒に当たり切った人間にとって、労働というのは端的に零だったはずだ」

と思い直す、ということをする。これは生きているといくらかする。

 

 現場で細々としたこととか、何か大変なこととか、至極退屈なことだとかがありながら、基本的には無難にこなしていたのだろうと思う。

 何故なら零、零だからだ。

 

 毎日酒を飲み、本を読み、簡単に飯を食い(調理器具はフライパンしかなかったらしい)、それが9年続いたという。

 

 こんな贅沢な生き方が可能なのだろうか。

 可能だったのだ。毒の中では。

 

 山本陽子さんは栄養過多で死んだのではないか。

 

 酒を浴び、本を浴び、労働は零として経過した。

 

 これだけの栄養をまともに食らっていれば、そうそう長くは生きられない。

 

 長く生き、社会と密接に交わるためには、もっと栄養を減らさなければならない。

 もっと貧しくしなければならない。

 つまり毎日の酒を毎日では無くし、

 家族、子どもが出来れば午後の読書を労働に変え、家事に変え、子育てに変え、金を貯め、

 健康のことを考えていろいろな飯を食い、また作ってやらなければならない。

 

 しかし、そんなものは一切排した。

 いや、排したというのは適切ではなく、最初からそんなものは、可能性としてすら存在していなかったのかもしれない。

 

 この、山本さんの、贅沢な9年を、私はおそれ、羨む。

 これは私の姿とちっとも変わらないのではないかと思うからであり、

 私が目指している場所はここなのではないかと思うからだ。

 

 この9年を、短いとかいって惜しむことも私には不可能であれば、長いなどといって驚くことも出来ない、

 

 私には分かるのだが、山本さんはこの9年、時間の全くない世界にいたはずだからだ。