<1720>「往復する身体」

 あたしが隠れていた、

 その、呼吸の中に、、

 それぞれの解法を委ねて、

 今に来れば、

 今に来れば、、

 私も、それ以上の呼気は知らなくなる、、

 その長い言葉の道行きの数々は知らなくなる、

 どこで何がふかれて、

 どこから何がきこえはじめるのか、

 誰と誰、

 今にほうけて、

 どれも、どれも、知るあてがない、

 

 これでもかというほど行き来していた道があるでしょう、

 なに、通学路など、

 そう、

 これでもかというほど行き来して、

 私は永遠にここを通うんじゃないか、と思うような、

 しかし突然、

 行かなくなる、行き来しなくなるのがとても当たり前なことのように、

 用がなくなれば、ぱたりと通らなくなる、

 また、その最後の日というのもなんとなく分かるね、

 そうですわね、

 でも、その最後の日に私は何の感慨も持っていないように思える、

 ふん、ふん、

 それで、この行き来には、何もない、

 私にとっては全くの零であったのではないか、と思われてくるけれども、

 それからしばらく経つと、

 もうこれでもかというほど行き来してきた道は、

 自分の身体になってしまっている、ことが分かる、

 身体になったものに対しては、

 別れるとか、最後とか、

 そんな関係はとりようはないやね、

 繰り返し歩くということの途方もなさ、なのか、

 なにか、だからまた行って、もう一度歩くとか歩かないとか、

 そんなことは大した違いではない、、

 

 (友人の良さはどこかと訊かれて)

 うん、それはね、もう、世界内の人であるということに尽きるんだ、

 自足している、安定した人、、

 そういう人というのは会うと安心するよね、、

 むろん、私も世界内の人である、と思うんだけど、

 気分がそこから剥がれようとする、というか、、

 最初から接着が上手く行っていないような気がするんだ、

 きっと、この人は、接着とか剥がれるとかいう観念とも無縁だと思う、

 そういう人が友達としていると、安心する、、

 

 やせていく身体に、

 物が多い、、

 それだけのことかもしれないが、

 あなたは往復を繰り返して、皆のところで、また身体になった、