これは子どもっぽい話になるのか、別にそうでもないのかはよく分からないが、
私が現実に生きるなかで、出会ってきたあれやこれやの人々を想起することがある、
すると、反対に、頻度がいかほどであるかそれは分からないが、私のことを知っている人々も時々私のことを想起したり誰かと居て話題にのぼらせたりすることがあるかもしれない、
それなりにそれなりの頻度で起こっているのかもしらないが、
私があれやこれやの人々を想起するのは現実感があるのに、
私のことを知っている人が私のことを想起するだろうことには全く現実感がない、
話題にのぼったよ、という事実を伝え聞いても、それはなんだか遠い話だという気がする、
現象として零ではないのに零だと感じる、
これを子どもっぽい話だと思ったのは何故だろう、
個人というありかたにとってこれは当たり前の話かもしれない、
当たり前っぽい話かな、
大袈裟なことを言うようかもしれないけれど、
もしこれらのウイルスでじき死ぬかもしれないとなったら、なにをしておきたいか、と考えたときに、
それでも日常を日に新たに形成するという思いに加えて、
どうしてももう一度読みたかった本に向かう、という気持ちが出てきている、
再読、精読ということに、
まあいろいろなきっかけがあって向かうことになるのですが、
まあそれはいいとして、大袈裟なことを言っていれば死なないで済むのじゃないかというよく分からない気持ち、気分がある、
でもよく考えると大袈裟に言うとか言わないとかいうことと、死ぬこととはまるでかかわりがない、
人が死ぬということには現実感がある、
現実感があるとはあっけないということで、、
だから人の口に私がのぼりましたという、話はなにかあっけない部分が少ない、
どこから湧いてどこに留まってどこに去っていくの、それは、という趣があるのかもしらない、
あいつはああいう奴である、嫌な言葉である、
しかしいざ自分が人を評する段になると、
あいつはああいう奴である、というしかないから困るではないか、
云々、というようなことを小林秀雄か誰かが言っていた、こんな曖昧な記憶だかなんだか分からないものから曖昧に物事を引っ張り出されて小林秀雄もいい迷惑だろうが、確かにそうだな、と思ったことというのはこんな形で長く残る、、
どんな人、ときかれても困っちまいますよね、
その人に会うしかない、
あ、もう一度読みたい本などを選んで読み返していてね、もう一段深く分かりたいと思うから読み返すんだけれども、
いかに論理的に、抽象的に組み立てられているように見える書物でも、個人の情緒というものが必ず下敷きにあって、
それをもっと知らなければこの選んだ一冊だけを読んでいてもこの一冊が理解できるようにはならないぞ、という音が既に私の中で鳴っている、
再読とともに、読む本も増やしていく必要があるなあ、