淀んでいるから愚かしいものに触れに行くのか、愚かしさを目の当たりにするから淀んでいくのか、どちらとも分からない。とにかく、愚かしいものに近づくと、やけに疲れてしまう。
何故、疲れると分かっていながら不用意にも近づいてしまうのだろう。仕方がないじゃないか、こうなるより外にやりようがなかったし、愚かしさの全責任が私にある訳ではない、といった姿勢に、危うい近さを見るからだろうか。
本当は全然納得していないからこそのその虚勢に、また、充分に浸りきって、愚かしいことを何とも思わなくなったからこそのその面に、見つめられて何とも言えぬ倦怠を覚える。自分の顔も、決して例外ではないように見えてくる。しかし理性が働き続けるような気もする。愚かしくないことは果たして立派か、偉いか。