どこから、何から語り始めたらいいだろう。
『悪人正機 (新潮文庫)』吉本 隆明,糸井 重里,他
— yutaro sata(1992-2092) (@soudaroune) 2024年11月18日
私のバイブルです。ずっと読んでいます。今日は私にとって特別な日です。生きる道筋を与えてもらいました。ありがとうございます。自分との約束を、吉本さんとの命のやりとりを続けてきて、今日がちょうど...#読書メーターhttps://t.co/2Y9ucZAwHQ
先日、2024年の11月18日。
私は、人生における大きな目標。自分との約束を果たした。
「毎日、休まずに文章を書く。それを10年続ける」
そうすれば、あなたはもう、100%一丁前になる。それは俺が保証する、と吉本さんは言った。
10年前、私は、仕事も、恋愛も結婚も、遊びも、勉強も、死ぬことも、なにもかもしたくなかった。
当然のことながら、この先どうしたらよいかが、全く見えていない状況だった。
そんなとき、吉本さんと出会った。吉本さんの、命をかけた言葉に出合った。
「だから、自分だけが決めたことでも何でもいいから、ちょっとでも長所があると思ったら、それを毎日、一〇年続けて、それで一丁前にならなかったら、この素っ首、差し上げるよって言えるような気がしますね。」(『悪人正機』p176)
何もしたくなくても、書くことが好きだった私は、10年前の2014年、
「よし、吉本さんはもう死んでいるけれど、俺はこの人の首を取りに行くつもりでこれから10年、毎日、物を書いて生きよう。何もやりたいことがないんだったら、ちょうどいい、せめて何かこの世に生きた証を残そう」
と決めて、今日只今まで生きてきた。
本当に達成してしまった。
吉本さんは、100%一丁前になる、と言ったけど、それがどういう意味なのか、達成したばかりなので、全貌はまだ分からない。きっとこれから如実に表れてくるのだと思う。
それより今は、
「自分という人間は、自分との約束を守れるということ」
「一番尊敬している人と、命のやり取りを10年も続けられたことが、とても幸福なことであるということ」
「10年間毎日休まず出来たということ自体が、とても幸運なことであるということ(怪我や大きな病気、突然死などに見舞われない10年を過ごせたということなのだから)」
を強く感じている。
もう、不幸なフリも、運のないフリも、可哀想なフリも、全く通用しなくなるぐらいに、私には力がある。
私は強運の持ち主である。
私は恵まれすぎているぐらいに恵まれている。
そういうことを思った。
そうしたらもう、社会に対して閉じているのもおしまいだし、社会を拒絶するための方法として性愛の放棄や、自己の放棄をしているのもおしまい。これでおしまい。
それをここに宣言する。
やみくもに性を乱していく必要はないけれど、社会拒否の材料として性を使わない。反対に開けていく。求めていく。受け容れていく。
おしゃれをする。格好をつけていく。それは自分を生き延びさせるために。
自分を見捨てている状況を、終わりにするために。
これもまた命懸けの行為である。
自信などというものが、一体全体どこから湧いてくるのか。
それがずっと分からなかった。
毎日、自分が決めたことを淡々とやる。
私の場合、その繰り返しのもとに生まれてくるのが自信だったのだな。
10年本当に経ってみてそれは初めて分かったことだった。
自信って、こうやって作るものなんだ。
私は、この10年の過ごし方、命を懸けた過ごし方のプランを、家族にも、仲の良い友達にも、誰にも、一度も言わなかった。
言ってしまったうえで、達成まで持っていく自信が、私にはなかったからだ。
言ったら叶わなくなる気がする。出来なくなる気がする。そう思っていたからだ。
だから今は、何か悪いことを隠していた訳ではないのだけれど、
「ああ、もう家族にも仲の良い友達にも、この10年間、私が何を一番に考えていたのか、それを言ってもいいんだな、もう達成したんだものな」
と思えて、結構身体が楽になっている。
もう、隠さなくていいんだ。
さて、最後に所信表明を。
一丁前になった。これは、吉本さんのお墨付きだ。
私はもうアマチュアではない。プロだ。
では、プロになって、どうする。
私は、世界一の詩人になりたいと思っている。
いや、世界一の詩人になる。
それは、この10年を経ての、生涯にわたる目標だ。
何故、この目標設定なのか。
無用な追い込まれ方をするという、これは美学だ。
これは、談志師匠から学んだ姿勢だ。
談志師匠は、俺が一番上手いと言う人だった。
これが何故すごいか。何故美学か。
そんなことを、言う必要がないからだ。
落語は芸能の世界。客観的な一番など決まらない。
お客さんそれぞれの心の中に、俺にとっての一番が、無数にある世界。
そういう世界に居て、自分はまだまだです、精進します、と謙虚に言って芸を磨いている人たちに、落ち度は一切ない。全くもって正しい姿勢だ。
そんな世界で、俺が一番上手いと言うこと。
それは、端的に間違いでもあるし、的外れだし、馬鹿げた発言でもある。
無用な追い込まれなのだ。
でも、それを言わずにはおれない。それを言わないで、正しく謙虚にしている、なんてことが出来ない。
そこに、談志師匠のどうしようもない芯がある。
そこに、生きる姿勢がある。
私はそれを、格好いいと思う人間だ。
一番になる、いや、一番だと言い切ってしまう人間は、大馬鹿者でしかない領域で、俺が一番だと言い切って生きる姿。
私はそれを学んできた。
だから、私も、生涯の目標を、世界一の詩人になる、というところに据える。
そんなこと、言う必要もないし、目指す必要もないし、目標設定として途方もないし、目標にしては曖昧に過ぎるし、第一、詩というのはそういう物言いとは食い合わせが悪い世界だし・・・。
だから、私は、世界一の詩人になると言っている。
それは、大馬鹿者として今後の人生を生きていくという、決意表明である。
はっきり言って、照れている場合ではないのである。
やめてくれやい、詩人なんて呼んでくれるなやい、と言って、照れてて良いのは、頂点に到達した本物だけである。
爆笑の太田さんもよく、たけしさんを引き合いに出して言ってますよね。
普通の、頭のおかしい人間は、照れている場合ではない。
世界一になると、目を据えながら言うしかない。
そういうことで、終わりたいと思います。
いや、始まりたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。
これが書けて良かった。書ける日がきて良かった。
ここに来るまでは、絶対に死ねねえぞと思ってたから。
良かった。良かった。