<314>「椅子がある」

 それを正しさだと思い込んでいたのは、相手の放つ腹立ち紛れの爆発の確かさ、その振動の強さの為だったと知り戸惑うし、腹立ち紛れにただ声を荒らげただけのことが、相手に正しさなのだと認識されていて戸惑う。実は何も分からない者であったのに、そんなにも簡単に私が正しさのひとつとして(勿論間違って)他人に機能してしまっていることに驚くし、あまりにも簡単に、私が正しさのひとつの在り方として許されていると、やはり戸惑う。ふうんなるほど、こういうスタンスもあるのかもね、いいね、などと、簡単に認識され、簡単にひとつの椅子を用意されてそれが除かれることもないとなると、果てしなく不安定な心持ちになる。突拍子のなさも、何となく同じ部屋で同じ席を用意される、それは何かが間違っているのではないか。私が何かを掴み損ねたか、椅子を用意した人の方が掴み損ねたか、いずれにしろ、私は立っている。もはや、座ることを妨げる何ものも存しないし、座ったところで何らかの危害が加えられる恐れもない。立っていようが座っていようが、同じことなのだ。なのにどうして座らないんだと周りの目が口々に言っている。いや、立っていようが座っていようがどちらにせよ結局同じことだからこそ、やはり私は立ったままでいるし、今後もしばらくそのままであろうという予感がする。これは意地なのか、いや、何かに力み返ってこうしているのではなく、ただ呆然としているだけなのだろうと思う。