ひきこもりの人がどうしてこんなに多いのでしょう。
という問いを、ポンッと放り投げられて、
正直、私は何も分からないな、と言った。
なにか分かれば解決に寄与できるのかもわからないが、
解決すべき問題なのかもわからない。
50年以上ひきこもっていた人のニュースを見たんです。
だから、ちょっときいてみたかったんです。
そういうことで、訊かれた。
私はそこでそのニュースを初めて伝え聞いた。
私は、家族というものがそうなるのをどこか深いところで知っていると思い、
とはいっても全く断絶されるという状況は知らない、と思った。
私は専門的な知識はないので、自身の経験に照らすことしかできないが、
その場所で感じることは、
家族が家族だけで閉じて、まったくパブリックというものを必要とせず、そこで自足する経験というのは、異常な濃さを持ち、ひどく豊かであるということで、
一方で、パブリックがないということにじりじりとした焦りや苛立ちが沸き立ってくる、非常に危うい場所でもある、ということなのだ。
私は、興味を抱くものの性質上(主に文字というか)、延々とひきこもっていられる感性を持っている。
一方で、家族の、家族を形成しつつある人の、パブリックのなさに、ひどくとまどいを覚える人間でもある。
例えば家族で遊びに行く、友達同士で遊びに行く。
そこで、関係のない第三者に話しかけられれば、そこにはほんのひととき、別の時間が起動して、交流が生まれる。
それが非常に満足のいくもの、いかないものであるにかかわらず。
ところが、この別時の起動自体を認めないというか、家族なら家族、友達同士なら友達同士で、私的な時間にとどまって、その別時がひらくことをよしとしない人の所作をよく見留めて、私はそういうときにとまどう。
パブリックがないのだ。
ひきこもりの問題は、私にとっては、個人が責任を果たしていないとか、逃げているとかいう次元で展開されるものではない。
パブリックが全くなくても人間が成立し、
そこには奇妙なくらいの豊かさと濃さが成立し、
何も問題がないように見えるし、
私は家族がそこまでいけるのを知っている。
しかし、パブリックが全くなくある身体というものへのとまどい、
その不思議、
その不可解へと思考は滑っていく。
なぜ、私的なもの以外には声をかけないのか。
という、人間の、家族の問題が、
その豊かさと豊かさゆえの影の濃さみたいなものが、
問題の真ん中にあるような気がしている。