<1899>「生き物の健康性」

 ものも今に見せて、見せて、、

 あたしは繋ぐ、、

 輪の中に身体の映像が、映えて、映えて、、

 ひとりものの動きを知り、、

 立てて、立て、、

 人も種も散る、

 さびしい地面だ、、

 私は涼しい顔として、そこを通る、、

 ある粒にかえる、、

 静かに舞っている、、

 ひとりでまぎれていく、その先に、、

 いくどとなくぶらさげた動きを、

 また出し、ただ出し、、

 その印のなかにあれ、あれ、、あなた、

 生まれて、、

 燻製の匂い、、

 私はただ生まれ始めていて、、

 どこまで重ねられていくのかしらん、

 相当数を仰ぎ、、

 いまに声の垂れる、、

 諸方の見方、、

 

 こんなに涼しい気持ちで表へ出るのはどうしてだろうか、、

 私は物種を、、

 風のなかに吹かせて、

 どこまでものびる気持ちでいる、、

 あたしはさわぎではないが、、

 旺盛な送りではある、

 その送りをなす脈の、

 豊かさに、、

 あたしは上手く驚くことができない、、

 ただよろげているだけ、

 ただ静まり返りテンポへ従うだけ、、

 深いところで交わってもいいのだろうが、

 そうしたらもう後へ引く方法はなくなるのだろうか、、

 あたしは関係を無際限にひらいていたいわけじゃなく、、

 深くなったら最後であるというところに、

 上手く健康を見ることができていないのではないかという気がする、

 あまりその、綺麗とか、

 楽しいとか、、

 落ち着くとか、

 そういう類の問題は、一個の物種が、、

 互いに深くまで食い込むときに、

 それは健康なのかという問題の前では、霧消する、、

 おそろしいほど互いに脈だ、

 筋肉だ、、

 暗い部屋で、

 社会の日常性から離れて、、

 そこで関係するとき、

 、

 私は、どうしても健康だとこれを思えないうちは現実の外の出来事としてこのことは私に対して位置すると思う、、

 わりかし物事の健康性というのを気にするのだな、

 なにかそうだとは思っていたが、、

 これ以上入れないと考えるときは、大抵、健康性が頭をよぎる、

 言語が、現実の、社会の中の会話だけでは健康性を失うように・・・