幾度通るか分からない。幾度通っても分からない。いや、ともかく、分からないことにした。分からないことにした後、とてもとても違いというものが明らかになるのだとした。
「同じ日は、同じ日で、またどこかにあるのじゃないかしら」
どうにも、急がれて、無限の微笑み。用か、不用じゃないとしたら、行きようのない場所、控えめに浮いて、納得してはもらえないだろうことを次々に話してはいる。とまどいつつ、ためらいつつ。
「君の、おいその君の、ともかくも跳ねているものはそれは、言葉か」
誰かが、今ここで何をか分かるとしたら、それは当たり前のひとつだ。誰かが、今ここで何もかも分からないとしたら、それは当たり前のひとつであるか、あるいは積極的な態度だ。
そんなことは分かっている、と矢継ぎ早に言う必要があった。本当に必要かどうか、どうもおかしいとは思いながら。おかしいのが私であったとしてそれも構わない、と思いながら。
いつもの癖で、それぐらいに話されるのだ。無理もないと笑うのに必要な量と、ちょうどよい私。会話がいくらそこからバラバラになろうとも構わない。構わないと言うだけの隙間が既にあった。