<236>「決まらない」

 俺にはこれなんだ、と決めてぐいと踏み込むとき、良いか悪いかは別として、そこにはごまかしがある。では、踏み込まないで、いつまでも不決定の状態に在り、動かないでいることの中にはごまかしがないかと言えばそんなことはなく、それもそれでまたごまかしである。そして、それら現れを遠くで見ていて、どうしようもなくなったとばかりヘラヘラ笑っているのも、当然ごまかしである(ヘラヘラ笑っているのがごまかしでなくて何であろう)。というよりそれはごまかしそのものである。私がいつもヘラヘラしているとすれば、それはきっと、そのものが好きだからなのだろうか。

 だから、決める人が決めない人を責めたり、決めない人が決める人を嘲ったり、ヘラヘラしている人が諸々を脱したかのようなつもりになっているのを見たときにいつも感じるのは、不快とか不満ではなく、違和感だ。全部同じ状態ではないか。快活即倦怠、倦怠即快活だということを以前書いたが、それと同じである、というかそれである。つまり、それらの態度の間に何かしらの差があると思っているからこそ、他の態度を否定する動きが出てくるのだと思うのだが、決めるのも決めないのもヘラヘラしているのも同じことなのだ。そこには確かに辛さもあるのだろうが、いつも私が感じるのは、事に当たって何かを決めるときの楽さ、決めないときの楽さ、そこから距離を置いてヘラヘラしていることの楽さである。