<2995>「欲望を起こす」

 欲望は、

 使っていかなければ育たない、、

 だから、

 そんなに欲望がない気がする、ではなく、

 育てる必要があるな、

 もっと、もっとと思いなさい、という教え、、

 強く望むことと、

 力み返ることとはまた違う、、

 お腹の下に欲望を、

 お腹の下に情熱を、、

 からだは燃えている、

 

 余裕です、あたし、

 とひっくり返っている場合ではないのだ、

 あちこち転げて、

 全身の皮膚でまだ学び取っていくべきことが、

 まだまだいくつもある、、

 まだまだからだを投げる、、

 遊んでいる、、

 遊びから遊びへ、

 軽やかにうつっていく、、

 軽やかに楽しんでいく、

 私は、

 魂から2つに分かれ、

 2つはまた手を取り、、

 お前のその、

 エネルギイが自然に溢れている側、

 懐かしいな、

 とひとつ思う、、

 ひとり綺麗に回転し、、

 ひとり綺麗にうたう、、

 あたしまだまだ、

 あたしまだまだ命を燃やしていたい、、

 

 モテるということを、

 基準のひとつに置きなさいという教え、

 自分が今まで望んだとか望まなかったとか、

 そんなことはいいから、

 モテるという状態を望んでいく、

 そんなこと、

 今まで全然気にしないで生きてきたな、

 それは驚かれてしかるべきなのかもしれない、、

 これもまた、

 眠っている欲望を、

 使うことで起こしていくということ、、

 私はこの欲望というか意思が、

 受身ということのゆるやかな克服に繋がるのじゃないかしら、

 と静かにおもっている、、

 吉本さんが、

 自分も含め、

 自分にかかわってくる人の特徴として、

 あまりにも受身じゃないかという話をしていることがあった、、

 自分で、自分を起こし、

 自分で、

 ほしいものを取りに行くこと、

 そのエネルギイはこれから生きていくために必要だ・・・

<2994>「あたしは無欲なのだろうか」

 からだがあたしの、

 からだは言う、

 あたしはひらきたいと、、

 あたしはもっと波に乗りたいと、

 あたしは無欲なのだろうか、、

 あたしは強欲なのだろうか、、

 意思を、

 自我を、

 人間を持て、というところに、

 やっぱり何度も帰って来る、、

 子どもの時代を、

 明確に終わりにする、という、

 テーマを持っている、、

 

 私は身体になるのかもしれない、、

 しらないまま、

 現象になるのかもしれない、

 結局、

 私が同じ人間だから、

 同じ場所、

 同じ問題へ還ってくる、、

 弱い振りをしていれば、

 欲のない振りをしていれば、

 私は許されるのだろうか、

 そうではないはずだ、、

 力を持ったことを、

 申し訳なさそうにしていれば、

 周りは納得するのだろうか、、

 納得しないだろうね、、

 

 あたしが自分で、

 気がつかないうちに語っていた、、

 あたしは真剣ではあるが、

 それは自己の内部にだけとどめていたのだと、

 つまり環境や、

 周囲の人々に対してはどこか遠く、

 どこか真剣ではない、、

 それは、

 遠慮もある、、

 かかわっちゃいけないんじゃないかという思いもある、、

 それでは良くない、

 それではダメなんだ、、

 真剣に人に話さなければ、

 人は付き合ってくれない、、

 皆が、

 この人に応えようと思うためには、

 私は真剣さを、

 内に留めておくだけではいけない、、

 

 あんまり恥ずかしくて言えないけど、

 大人になること、

 大人になりきってしまうことが、

 ずっとこわかったんだと思う、、

 でも多分今自分でも分かっている、

 大人になろう、

 大人になる以外の通路はないんだよ、

 ずっと迂回してきたけれど、

 大人になる以外の通路は・・・

<2993>「二重生活、その交代」

 どこに出たろう、

 あたしは、

 少し眠りすぎている、、

 どこから来たろう、

 あたしは、

 少し生まれすぎていた、、

 具体的な身体が、

 今必要な時間のなかで、

 少しずつ重なって、

 これは、

 ひどく不思議な形だ、、

 形から先、

 存在はあと、

 ひとつの言葉に先立ち、、

 からだが開始される、、

 からだは少し湿っている、、

 

 私が、

 僅かな空間を占めて、

 そこに、

 次々に太く、

 次々に声を足し、

 足された声は、

 状況をおしていく、、

 状況よゆるやかに流れてくれ、

 状況は急ぐ、、

 私のこの二重生活、

 私のこのテキストと、

 現実の社会との二重生活、

 もの書く人はみんなこんなものなのか、、

 私は、

 現実で何が起ころうと、

 平然とルーティンに復帰する、

 私をどこか人間から遠いもののように感じ、

 しかし人間でなければこんなことはしない、

 出来ないと思い直す、、

 

 あたしはあたりまえに、

 現実の存在のなかで、

 歩を降ろし、

 からだのよろこびも知り、、

 ただ歩き、

 ただ知らぬ間に集まってくる、、

 ひとつの意識のかたまりが、

 私のなかで、

 泡となりなになとなり、

 また肌へつく、、

 私には社会があり、

 社会があることなどまるで嘘のような、

 しずかな生の時間、

 ひとりの生のうごきがここにあります、、

 入れ替わる儀式、

 私は呼吸を替え、

 意識をかえているだろうか、、

 いや、

 そこはグラデーションに、なっているはずだ・・・

<2992>「生きることはくやしい、how to entertain」

 生きることはくやしい、

 本当にくやしい、

 昨晩は私は家に帰ってきてから7時間ぐらい、

 ずっとくやしかった、、

 こんなにくやしいかね、

 生きることは綺麗事ではないな、

 私はボーッとして、

 美しい夢を見がちだけど、、

 決して生きることはそれだけではない、、

 泥の様な手触りのなかを、

 一歩一歩進めていくようなものがある、

 

 泥のなかは、

 上手く先に進みたくても、

 なかなか進ませてもらえない世界だ、、

 イチローさんが、

 あるときは後退しながら、

 時期によっては後退しかしない時期もあると言った、

 その言葉の響きをききながら、

 泥のなかを、

 どこに出るか分からないまま、

 進めているという歩みの実感だ、、

 

 年を取ることの利点は、

 あ、

 同じ苦しみが、

 同じ悩みが、

 前にもあったことを確認できるという点で、

 そうするとこの先に別に出口がないことや、

 ただぼーっと待っていても何も変わらないことや、

 時間が経てば別に全然平気だったりすることを、

 体験的に知っているから、

 ただ苦しみや、悩みがあるまま、

 ふつうに生活を送ることができる、

 

 その人の気分の波ももちろんあり、

 私に対して抱く印象の微妙な変化もあり、

 生きている集団は、

 いつだって一枚岩ではない、、

 それは家族だって、

 友達のグループであったってそうだ、、

 そのなかで、

 それでも、

 良い時間というのを探っていくこと、

 良い瞬間を探っていくこと、、

 そこはあきらめないでいこう、、

 全く異なる運命を託された人々が、、

 全く違う目的のために日々勉めるなかで、

 僅かの間だけ、

 同じ場所を共有しているということ、

 そのことの困難さと、

 そのことの喜びを忘れずにいたい、、

 簡単ではない、

 いやになったらすっと去ってしまう世界だ、

 それは私だってそうかもしれない、、

 そこでどうエンターテインするか、

 簡単ではない・・・

<2991>「身体が夢を握ること、血しかない」

 私は知る、

 環境も、気分を持っていると、

 私は歩く、

 特に何を考えるでもなく、、

 私は、

 想像した世界のなかへ、

 段々に進んでいく、

 この日々が不思議で仕方ない、

 当たり前に訪れようとしている、

 その日がこわくて仕方ない、

 私はドキドキする、、

 身体が夢を握っている、、

 夢を握っているとき、

 こんなにも生にはいろいろ起こるか、、

 こんなにも1日の密度が濃くなるか、、

 

 多分、

 何にも起きていないように見えたり、

 淡々と過ぎていたりするように、

 ただこちら側からは見えていることの、なかに、

 これ以上はないというような、

 ひとつの劇があって、

 その劇は隠されている、

 穏やかな笑顔で隠されている、、

 私は集中する、、

 自分の作業に集中する、

 エネルギイを、

 どのような形で通したらいいか、

 模索し、

 方向が定まりだすと、

 その勢いは濃く、強くなる、、

 私には血しかない、

 血しかないから、、

 交通整理をする、

 ここと、ここと、

 あそこを通ったらいいよという、

 道案内だけをする、、

 近くで人が呼び、

 私には現実もあることを思い出す、、

 

 生きていることは、

 なぜ複数なのだろう、

 生きていることは、

 少し分裂の気配、、

 だから、

 昔の友達と会うこと、

 家族と会うことは、、

 その複数さのなかに、

 線をひとつ通す作業、

 私は、

 穏やかなのかしら、

 と自分を疑うことがままある、、

 からだのなかで、作られた、

 私の血は、

 よろこびや、

 さびしさの形をしていない・・・

<2990>「技術を披露する、生きていること全般に緊張する」

 技術を披露する、

 まあ代償とまでは言えないかもしれないけれど、、

 良い意味でも、悪い意味でも、

 珍しいものを見ているような、

 視線を浴びることになる、

 それは心地良さでもあるのだが、、

 ちょっとぞわぞわとする、

 あたしのこわがりの部分に、

 少しそれら視線が触れてくるぞ、

 と思うことはある、、

 

 だからこそ、

 私はこれでもか、これでもかと自己を開いたり、

 ああこわい、こわい、

 こんなに求められるはずではなかったと、

 極限まで自己を閉じたりしていたのだ、、

 あんなにひらいていたのになんで、

 という疑問の視線に、

 ぶつかってきたことも多い、、

 

 それで、

 私は次の段階へ行きたいのだ、、

 何かの焦りから、

 自分の持っているものを、

 こんなんもあります、あんなんもありますと、

 提出し続けるのでもなく、

 こういうことが実は好きなんだと、

 言ってみる自然な流れがあれば、

 言ってみて、

 それでひろがればひろがるだけの、

 範囲で行動をし、行動を変え、、

 その受け入れの波が大きくなって、

 ちょっとこわさが私の中でひろがっていっても、、

 まあそう、

 なんでか分からないけど結構、

 受け入れられるのってこわいよな、

 と言いきかせながら、

 こわいまま閉じずに、

 現実と付き合う、

 その段階まで行きたいのだ、

 こわくなくなるとかはもっと後で、

 もっともこわくなくなる必要があるかどうか、

 それは分からない、

 

 基本的に、

 1か月の間で、

 平穏に過ごしているようでも、

 実はあらゆることが起こっているのは、

 記録を確認すればよく分かる、、

 1か月前の出来事は、

 私にとって大昔の出来事のように感じる、、

 それは良いことだろうか、

 分からない、、

 私は緊張しているだけだ、、

 時々何に緊張しているのか分からない、

 生きていること全般に、なのかもしれない・・・

<2989>「芸能者の生きがい、よろこばれるためにある技術」

 ねえ、

 あたしは居たよ、、

 こんなにふるえて、

 いつも、

 どこにいるのかが分からなかった、私を、

 掴むことが、可能になる場所に、

 まっすぐに居たんだ、、

 

 声をかけてほしいでも、

 かけたいでもないんだな、、

 私の情報が、

 少しだけ、

 うるさくない程度に渡れば、

 私の世界は、また、

 違うひろがりを見せる、、

 そして、

 何かができることは、

 提出の仕方を間違えなければ、

 うとまれることではない、

 むしろ、

 よろこんでもらえることだ、、

 あたしはこんなことが好きなんです、

 という、

 情報をひらいていこうよ、、

 よろこんでもらえることがある、

 これは芸能者の生きがいだ、、

 私が夢見る世界だ、、

 技術は、

 人をおさえつけるためにある訳ではない、、

 人をうれしい波に乗せる、

 一緒に踊らせる、、

 それが技術の一番のよろこびではないか、、

 だから私は黙々とトレーニングをします、

 好きだから、

 そして、

 私がよろこんで、もらえる範囲が増えれば、

 私自身がうれしいじゃないですか、、

 これは大事なことですよね、

 

 人が、

 あまりに自然な形に、かえり、、

 リラックスして、

 振動数が同じになるように、

 からだを作る、、

 からだは集まっている、、

 からだはあなたの声をきく、、

 あなたが集まってくる、、

 私は、溢れたまま、

 どこの水に合流しよう、

 迷う、

 迷う迷う、、

 しているうち、

 だんだんに気分が落ち着いて、

 あたしは、

 自らの呼吸をつくる、、

 自らの土地にかえる・・・