<465>「零になる」

 鋭さ、あるいは軽さをどうにかしようとして、この分かりにくい停止を甘受している。鈍たいがままの運動というものを、立ち上げた方がよいだろう、と考えるときの頭は、確かに軽さであるのだが、制限されているものがなんともなくなるとすると、制限しているものの立場は、心境は? どうなるのだろう。尤も、そんなものはどうなったっていいと考えてもおそらく大した問題にはなるまい。

 空洞になることをいくらか残念なことのように語る人が居たそうな。どうにもあまりピンと来ない、賛同には至らない。全く無化されていくこと、また、己でそれに加担していくことはとても自然なことに思われるからだ。教えられてきたもののなかの何かなのか? そういう表情が貼ってある、ちょうど貼ってあるから見てみるが、別に驚くこともない。ああ、そうだろうな、と思うだけで、おそらく中を完全に眺めていると、ああいった表情を寄越すことになるはずだ。