たまに見せる側面が本当の姿だという錯覚はどこから来るのか

 一般的に、物凄く怖いと言われている人であったり、性格が悪いと言われている人であったりが、たまに優しい側面を見せると、

「なんだ、あの人は本当は優しい人なんじゃないか」

と思ってしまったり、反対に、普段は物凄く優しい人が、時折怖い一面をのぞかせると、

「あの人、実は怖い人じゃないか・・・」

と思ってしまうことがありますが、これらの思いは錯覚であると決めつけてほぼ間違いないと思っています。

 というのも、

「本当は怖い」

であるとか、

「本当は優しい」

であるとかの、

「本当の姿が人間にはある」

という考え自体が、既に幻想であると思うからです。

 人間の感情、ないしは態度といったものは、相手との関係性によって目まぐるしく変化するものですし、また、そのときの心情一つで、その人の様子というのはガラッと変わってしまいますから、しっかりと固定された「本当の姿」なんていうものは、どこにもないのです。

 しかし、現実として、普段は優しい人が時折怖い一面を見せると、こちらは激しい動揺を覚えてしまいます。そして、

「いつもはニコニコしているけど、本当は・・・」

などと、ありもしない本当の姿を仮想してしまうのです。実際のところは、大方優しい人にも、当然怖い側面があるという、ただそれだけのことなのですが、たまに見せる顔の方が本来だ、などといって勝手に錯覚してしまうのです。

 勿論、頭では錯覚であるということは分かっていながら、それでもなお、

「時折見せる顔」

が本来の姿であるという錯覚が起こってしまうのは何故なのでしょう。

 何故そんな勘違いをするのかということを理屈で説明してみろ、と言われたら、無理だと答えるより他ないのですが、それでもなんとなく、本能に近い部分で起きていることではないだろうという思いはあります。例えば、私は動物になってみたことがないので分かりませんが、ライオンなどが、

「あのオスさ、いつもは良い顔してるけど、たまーに見せる怖い顔が本当のあいつだぜ」

と考えて行動しているかというと、どうもそうだとは言えないような気がするのです。

 とすると、人間が生んだ観念に近い部分で錯覚しているという推測が立てられるかと思うのですが、そうなるとやはり、普段見えているその人の性質には取り繕いが多く、時折うっかり出てくる性質こそ、その人の性分だという考えが染みついているのでしょうか。

 しかしそれを言いだすと、時折うっかり見せる性質の方だって、いくらでも取り繕うことが可能ですから、普段悪い人が、戦略的にときたま優しさを見せることもあるでしょうし、普段優しい人が、恐怖を与えられるという算段の下、怖い面を見せるということもあるでしょう。

 そうなると、人の善悪、その人が単純に良い人だとか悪い人だとかは、ちょっと判断のしようがないのに、無理やりに良いだとか悪いだとかを判定しているんじゃないかと思えてきます。他人が本当のところどういう人なのかということは、一生かかっても良く分からないし、また、前述したとおりその、「本当の姿」なるものすらないのです。

 しかしそうすると、社会で生きていく上で、自分以外の他人の情報が多くなって疲れるゆえ、どうしても他人の情報を単純化したいという欲求が働いて、

「実はあの人は~~」

と決めつけたい衝動に駆られるのかもしれません。その衝動が錯覚を作り出すのでしょうか・・・。

 そうやって勝手に他人の情報を、

「本当は」

であるとか、

「実は」

という形で無理くりに単純化しておいて、その上で、自分が決めつけた他人像を破られると、その都度動揺を覚えるなんて、何とも勝手なものだ、と我ながら苦笑してしまいます・・・。