<276>「何に見放された」

 見放されたと感じるとき、実は自分が見放しているだけだったりするし、不快な気持ちにさせられたと思うとき、大体自分も何か不愉快な行動を起こしていたりする。全部が全部そうだという訳ではないが、そういうことが圧倒的に多い。例えば、相手が不愉快な行動をこちらに向けてくるだけでは、不快さはそこまでひどいことにもならない。そこに自分の反撃が加わると、不愉快さは圧倒的に増える。

 こういうことは意外と一般的なのではないかという気がしているが、しかし何故、ストレートに、

「見放された」

と思っているのだろうか。

「見放してしまった」

と思わないのだろうか。そこには責任転嫁があるが、しかしぐいと無理して、責任を向こうに押しつけるところまで持っていったという感覚はないのだ。不思議なことに、自分が何かを見放したとき、それと同時に、

「見放された」

という思いが、瞬時に頭の中を通り過ぎているのだ。

 では確かに、誰かに何かに見放されていたのだろうか。すると私が、私を見放したということになるのだろうか(私が私に見放された?)。そこに、本当はそうしたくなかったのに何故かそうしてしまったという、行動と考えの矛盾とがあったからなのか。あるいはそういうことではなく、自分が相手を見放すということにそれほどの力がこもっておらず、実感がなかった為に、見放したとは思わないのだろうか。それとも確かに、自分は自分の為した行いによって、誰かに何かに見放されていたのだろうか。そんなことはあり得るのだろうか・・・。