<192>「知らない会場で」

 贈与や恩恵のことを論じるにあたって、先日先々日辺りから触れている、いわゆる贈与の不愉快な面について詰めていないものを見ると、どうしても不満を覚えてしまう。それでは不十分だという気がするのだ。また、珍しく触れられていると思ったら、それを不快に思うのはけしからんという話だったりで、ガッカリしてしまうのだが。自然と違い、人間があえて恩を施すことにはどうしても不自然さが付き纏い、容易に着せることの方へと転換することを考えれば、不自然な贈与がもたらす不快感というのを根本問題として、けしからんと切り捨てたりせず、かといって過剰にその不快感を強調したりせず、当たり前に扱っていくべきだと思っている。これは、親子間の難しさの要というか、親になることにより生じる困難のうち、最も重要なもののひとつだという気がする。何か、施しを行うことには魔的なものがあると昨日も書いたが、恩恵は、それを施す側が無自覚なときに自然に通うことを考えると(太陽や水)、子に対する親などという、特に自覚的な場面というのはもう、何かがおかしくなってくださいと言っているようなものである。自分の与える恩恵というものが見え過ぎる。

 例えば、こういうイメージを共有する。突然、望んだ訳でもない会場に、気がついたときには連れてこられていた私。何だこれはと思って帰ろうとすると、会場にいる誰かから、もうお前は死ぬまでここからは帰れないと告げられる。その上、お前はこの会場ではひとりでやっていけないのだが、仕方がないから手伝いを俺らがやってやる、だから感謝しろよ、と、嫌そうな、めんどくさそうな表情で言われている・・・。こういう場に立たされたイメージを持ったとき、凡そどのような感じを抱くかについては、人それぞれであまり差はないだろう。こういう経験はしたくない、あるいは誰かにこういう経験をさせることは望ましくないと。こういうことは、

「例えとして見ている」

ときにはよく分かる。しかし、これがそのまま実際の親子関係となると、途端に分からなくなる(本当に、本当に自然に、「育ててやった」とか「面倒をみてやった」とかの言葉が使われてしまう)。ともすれば、不愉快な贈与を経ていたりするかもしれない新たな親にとって、分かりやすく自分の施す恩が見えるようになるという事実は、より一層の魔的な魅力として迫ってくる。圧倒的な快楽によって、かつての不愉快な贈与の記憶は完全に覆われてしまい、もう見なくてよくなったように思われるからだ。しかし、それ自体で解決されていなかった問題は、見えなくなったことによっても解消されることはなく、その下で、快楽を得ようとする暗い欲望へと転換されている。すると何が起こるか、同じような不愉快な贈与を自分の子どもへと知らず知らずのうちに送るようなことが起こる。

 不愉快な贈与のことなんか、さっさと自分が親に回ることで解決しちゃいなよ、というのは実は何の解決にもなっていない。自分の不愉快をそのまま次へと投げてしまった、背負わせてしまっただけだ。そして、必ずそれは自分へとはね返ってくる。