<1379>「困難だなと言う」

 私が困難だという言いを取ろうとして、そのたび、何が具体的に困難なのかを言うことが出来ないのを不思議に感ずる、

 具体的に身体は動く、

 動揺や、 ひん曲がったような印象は、身体を打つはずなのに、

 なんなく平然としている、

 平然とした身体に対して、ズレていることが困難なのか、

 何も困難であることはないとも思える、、

 

 細かな部分に分かれて、身体がその通り動いてゆくところに、

 ひとつの困難も見当たらない、

 それでなお困難だと発することは何か、

 

 なければならない、という話法には無理がある、、

 義務意識は具体的な自然、身体の構成にそぐわない、

 そこにあって、、動かしてみれば動く、という、現実の経験しか持たないのであれば、

 してみよう、という試行観念で、動く、、

 

 無数に動く様を感ずる、

 私が少し展開させるようなことの外へ、ただ反対方向へ、無数に動くので、

 むしろ困難は少ないとも言える、、

 

 困難という言いは何がさせるのか、

 困難としか表せないところ、、

 それは、私が現に不愉快な場所にいて不愉快ではない場所にいるのではないということ、

 具体的に身体が動いてもなお、そこに何かが残っているということ、

 身体は平然としているのに、揺れを受けているということ、

 

 私の身体の動きは日々多くなっていく、

 多くなっていくように感じている、、

 空間が不愉快であったということをどこかにとどめながら、

 私は未生者ではない、

 端から端まで不愉快の経験をするということは、 

 平然と生きた身体を持っているということは、

 困難だ、

 何事が、、何事が困難なのだ、

 私が、

 

 快適であろうとするのは間違いなのか、

 いや、おそらくそうではない、、

 では、不愉快に身を浸していることは必要なことなのか、

 それも違う、 それは意味の考えだ、

 そうではなく、、不愉快な場所が現にあったということを忘れないでおこうということなのだ、

 それも何の為でもなく、

 どこかで活かす為でもなく、、

 不愉快がしっかりと身体の揺れを作っていたということ、

 不愉快であったと確認してそれを止めないでおくこと、

 

 困難な人だという考えから出発しているのか、

 どうしてもそこに帰着するのか、

 それはどちらだからどうということもないのだが、

 身体を動かしながら、

 困難であるということを乗せて、、