<2679>「ねえ、鐘、醒めよう」

 なんで、

 なんでその手が、

 その手がながれ、ながれてゆくの、

 違う、

 違う、

 違う違う違う、違うのに、

 あたし、身体じゃないのに、、

 あたし、声でもないのに、

 誘っていて、、

 あなたは放っておく、、

 あなたは現在時、

 どこかから、通路をひく、、

 これは困ってしまう、、

 つくりこまれた身体、

 無感、、

 少し踊る、、

 少しだけ漏れる、、

 

 なぜ、

 ここはそして黙っているの、、

 私がなかへ行き、

 それを見て、

 笑っているの、、

 うれしくて、笑っているの、

 からだをほどいたら、、

 なかが鐘で、、

 喉奥を鳴らして、

 その響きが円い、、

 あたしはもっとなかへ、

 もっとなかへ行き、、

 その人のなかの僅かな光の部位へ、、

 耳をつけている、、

 あ、

 まだ生まれようとしている、、

 わたしは眠らなかった、、

 わたしは、現在時を、

 覚醒と思い、

 それに、違和はなくなってゆく、、

 からだがとどまる、、

 はらが、

 はらがしずかにふくらんでくる、、

 このなかのものはまだ眠り、、

 あたしはほんの十年、いや、

 七、八年前まで、

 眠りとして過ごしていた、、

 あいだに狂喜がはさまったが、、

 いまは目をアいている、、

 

 あくびなどしよう、、

 あたしは原へ出て、、

 うん、

 なにをしたものかとじりじりする身体を持っていた、、

 ねえ、、

 ここに紙とペンがあれば、、

 それは過去に、

 鐘の音としてひびく・・・

<2678>「あの日の声と」

 きっとまだ水もみていないのに、、

 わたしばかりが漏るところへ、

 接近してきたのだね、、

 あたしを遠くに招んで、

 ね、

 そのからだのかぎり、、

 あたしをこちらへ招んでね、、

 また水が入る、、

 水は生まれているのに、、

 私は微笑む、、

 私のからだのなかの揺らぎが、

 ひとつひとつ明らかになっては、、

 またこの先の方へはじまる、

 

 そうね、、

 まだそのつちのはてのない匂いから、、

 あたしもこぼれて、

 こぼれて、、

 どこか、

 遠い所へつかまらせてね、、

 あたしはなぜこんな遠い場所に来た、、

 さびしさを負って、、

 しかし私はここの空気が好きだ、

 ここの状態が好きだ、、

 また見るの、

 うん、

 私はこのリズムを見る、、

 このなかにからだをたてる、

 どこへほどけていくか、それが分からないのに、、

 また幾つかの量、、

 幾つかの存在になってはじまる、、

 まだきっと生まれていないのに、、

 あたしはただの静かな生活で、

 ここから先へも来る、、

 ね、

 あたしは見事にその先へ来たね、、

 まったくしらないさびしさに到達して、

 私は息をしたね、、

 このからだがいつも揺れている、、

 

 私は撒き、、

 手についた殻を食い、

 育ち、、

 同じところへ、

 同じ身体でおさまる、、

 あなたも知っているだろう、あの身体に、、

 私は座る、、

 あなたはいくつもの願いを込め、

 頭から水をかけてゆく、、

 私はそれを通路とする、

 通い慣れた光景と重ねる、、

 私がいくつも声をする、

 それはあの日のあの人の声と同じだと、

 いう人が静かに水をかける、、

 私は膨らんでゆく、、

 はいる息を頼りにして・・・

<2677>「外の光の上手さ(私は作業をする)」

 あたしのその記憶のなかのしらないもの、、

 もう少し見せて、

 見たらなんだろう、、

 なんということもないではないか、、

 いまははて、

 からだのはて、、

 私がそれぞれに、、

 からだに声をつなげて、、

 今流れるように、

 今ひとつの接続の、

 ずっと前から続いていたように、、

 

 ね、

 あなたはそこでたくさんいましたね、、

 からだはのばされている、

 からだはその隙間にいくつもの情報を、

 埋め込んでまた膨らんできている、、

 ね、

 あなたはヒのなかにすっかりはさまりますか、

 とおくへ来たのでしょうか、

 すっかり内化され、

 瞬時に様々な場所へ行くのだろうか、

 訳が分からない、

 からだはなにものぞんでいないのか、、

 あたしが打つだけなのか、

 どこから先のもの、、

 どこからまたなかのもの、、

 あたしは疲れたときまたふっと、、

 静かに底へおりていく、、

 それには目の方向転換、

 私がそれぞれの位置をしっている、、

 あのとき抱いていたイメージの、

 その世界にはおらず、

 どこから、

 この私の内時をはじめる、、

 すべてただの迫力、、

 あたしは顔を見る、、

 いくつものからだから見る、

 あ、

 そうね、あたしね、、

 その指のなかであたたかくなり、、

 もうそこは外の光の、

 上手い外の光の、、

 なにをしているのだろう、、

 私には作業が必要だ、

 背中を見せる、背中を向ける、、

 

 私にはそれは朝も来たはずで、、

 なにだかさわぐ気持ちも、

 あたしは水の一杯になっていたはずで、、

 私は作業をする、、

 なぜ、

 からだはなにも言わないのだろう、、

 私は作業をする、

 ひとつの海の底のなかのようだのに、、

 あなたのからだも横に置いて・・・

<2676>「内部の水は、かわく、無感動に」

 あたしは身体の水を知り、、

 それを取り、、

 また外部を浸したら、、

 あたしは内と外を取りかえる、、

 まだ動いているその内の、

 ひと呼吸ごとの盛り上がりが、

 いままさに暗部の世界、

 そこにとっての太陽は呼吸、、

 呼吸が走る音は鳥のさえずり、、

 鳥のさえずりはあなたの水、

 あなたの水は赤い、、

 私はその赤さ、

 というよりも 生きものの真の底ともいうべき、

 その赤黒さを、

 無感動で眺めている、、

 それが流れることも、

 まるで大したことはないように思える、、

 

 私はその中に住んでいない、

 私はその外に住んでもいない、

 中間部にもいない、、

 ここに通過者として、

 しつこくあり続けているだけなのだ、、

 知らないものがはいる、、

 あたしはメッセージだけを出しておく、

 もっと入れ、、

 もっと入れ、、

 もっともっと入っては困る、、

 もっと入れ、、

 からだの波の立たせかたをいまひといきで知り、、

 あたしは手をする、、

 からだのふたつの時間、

 片方は、

 時間と呼んでよいものかどうか、

 それすら危ぶまれるものへ、、

 私は手を浸していく、

 ここに、、

 私は無音声でもって手を、、

 

 あなたは水を掴むかしら、、

 停止する者として、

 その通過をいくらか掴むかしら、、

 むろん、

 いくつか掴んだのに相違ない、

 しかしこれはどこへ染み、

 どこへかわいたのだ、、

 あたしは声を出しそうになる、、

 関わりのない身振りをいくつか、

 ここへ入れて、、

 あたしはまたはしゃぎそうになるのを、

 いくらかおさえ、、

 また、

 おさえるまでもないほど、、

 あたしは腸の皮膚のところで、、

 無振動を享受している、、

 あ、は・・・

<2675>「世界の肉体、無の削り込み」

 まったくからだの外の光のなかへ埋もれる、、

 あたしは肉体を、

 これはどこか底からくるのに、ついて、

 ふるえて、、

 あたしはまたそれに任す、、

 そのままでいる、

 あたしはお前が水と光の中にいるのを知っている、、

 こちらを向き、

 だから、通路を、、

 いくつも通路を用意したろう、、

 私は線的なその喜びを、、

 ただのほうけた穴になって眺め、、

 うん、

 私のいる場所はここなのだと、

 気がつくものがいた、、

 

 下肢が、ふるえる、、

 あたしは世界の肉体を思い出していた、

 なに、

 無の作業を、、

 無の削り込みというものを、続けていたら、

 なにだろう、

 私は現実の線らしくなってきた、、

 私はきこえてきた、、

 このはらにも響いてきたよ、

 あなたも招ぼう、、

 ねえ、魂たち、

 あっという間に招ぼうよ、、

 この行列は、なになの、

 このあつまりのさわぎはなになの、、

 あたしは声を掛ける、、

 このものがだれなの、

 あたしは糸なの、、

 垂れて垂れて、

 このよろこびに身体を入れた、、

 私は友情的であるときどこまでもひらきます、、

 不気味なほどの回転、、

 生きている今が時々不明になりながら、、

 その空間を掴み、

 あたしは肌に馴染ませる、、

 馴染ませた肌が浮いている、

 馴染ませた肌がさわいでいる、、

 

 あたしの手の手の、

 その肌色の興奮の部分と、、

 これらを現実の時間で泳がせる、、

 あなたはきっとどこまでもそうする、

 順にきいているあいだ、

 これを、どこまでもそうする、、

 あたしが、持っていた、意識は、

 意識で、もう、ない、

 それはただの煙、、

 浮かれてすごしたあとの上昇、また上昇、、

 はなやぐ、、

 これはイメージではない、、

 これは汗をかく仕事です・・・

<2674>「意識を、骨を、舌を畳む」

 あたしは形あるもののなかに、

 しずかに潜り、、

 そこで生まれた、

 そこで声をした、、

 だれの声の形だろう、、

 あたしは自身が挟まっているような感覚、、

 私は空を見上げ、、

 そのなかでできるだけ声をしてみたい、

 と考えている、、

 からだがふるえる、、

 どこから吸い上げてきたのか、分からない、

 それぞれの水たち、、

 私のなかにはいってはやまない、

 その記憶たち、、

 

 なんとも、なんとも、、

 こんなところに、ふらっと、、

 形があらわれて、、

 それは溶けて、

 いくつもの方向へ、、

 人々は、沈黙して、

 そのそれぞれを見る、、

 あたしが見ているのは、あれは、何だろう、、

 それぞれの言葉がまわる、、

 あたしは渦になる、、

 ここの無感、

 例えば水に、

 倦怠はありうるだろうか、、

 私は、いつのまにか、、

 物量から来る疲れと、

 少しずつ無縁になっていった、、

 あなたがたの声が、

 ここへ、

 上手くまぜこめることになってきた、、

 つまり、私は、、

 別の通路をひらくはずだ、、

 私の声の形を、

 この場へも混ぜうるはずだ、、

 手を見て、

 手を見て、

 何も不気味なところはない、、

 だれが生きているのか、、

 私は水を吸い込んでいるだけなのか、、

 

 あたしはその小さい点へ向けて、、

 意識を畳み、、

 骨を畳み、、

 舌を畳んで、、

 その内空間で、

 勢いを、爆発させる、、

 ああ、順に身体が育った、、

 わたしが育った、、

 わたしはその目で見ていた、、

 四肢は驚いていた、、

 私が立ったから、、

 私が水をすくったから・・・

<2673>「友情的に存在するということ~過去と治療8(終)」

 家族というものは、私にとって、

「私は存在しない」

と思い込まないことには通過出来ない場所でした。

 同時に、私はその妄想を、自己の足場として内化し、強化しました。

 生来の気味悪がりから来る、応えなさを、逆に自己の特色として育てました。

 

 心苦しいことですが、私は、従って家族というものを、今度はあなたが主体となってやっていけばいいんだよ、と言われても、

「申し訳ない。すまない。私には家族を形成することには何の意味も見出せない」

と答えるより仕方がないのです。

 

 

 友情は、ごく自然に結ぶことが出来ます。

 しかし愛情に対して、その大きさにかかわらずいつも抱くのは、この、

「すまない」

という気持ちなのです。

 それは、自分が最終的にはその愛に全く応えないだろうことがはっきりと分かってしまうことに対する申し訳なさです。

 

 存在しない、応えない、それもなぜか応えないという在り方を、逆に存在の根拠にしてきたがため、

「愛されるんだからただそれを認めたらいいだけじゃない」

という理屈が、よく分からないのです。

 

 私にとってそれを認めることは、私の存在を否定することになります。

 私の、それによってなんとか自分を保ってきた足場を、自分で崩していくことを意味します。

 

 存在を否定すること、自らの足場を自らで切り崩していくことは、難しいことなのではなく、出来ないこと、誰にも出来ないことです。

 

 以前はそれを変更可能だと信じたこともありましたが、自分の存在の根拠をまるごと否定することは、かなわないことです。

 

 

 どこに行っても必ず自分の共通の問題にぶつかり、これは一度自分で過去を探ってなんとかせねばならないと思ってこの『過去と治療』というテーマでものを書き始めました。

 そして、続けてきて気づいたのは、治療という言葉が意味することについてです。

 最初は、過去の問題に降りていき、そのいちいちに解決をつけることで、それらの傷が癒されていくことこそが治療なのだと漠然と思っていましたが、治療はそういうものとしては存在しませんでした。

 そうではなく、自分という存在の道の辿り方、それが今に至ってもいかに大きな影響を保っているかを確認すること、そして動かせる部分と、絶対に動かせない部分を見定めることで、逆に腹が据わり、これが私なんだと存在の位置が決まり、静かに落ち着いてくること、そのことこそが治療だったのだと思います。

 これを始める前と後とでは、精神の落ち着き方というものには雲泥の差があります。

 

 また、この過程で気づけた大きなことと言えば、

「なるほど家族や愛の問題には全く意味を見出せず、愛してくれる人には申し訳ないと感じ続けて苦しい一方で、友情は自然に理解できること、友達には仲良くしてくれて申し訳ないなどとちっとも思わないこと」

を確認できたことです。

 

 原初の不信を今更無しにすることはできない。愛もわからないし愛することもわからない。

 しかしだからといって私はこの世界に、社会に、悪魔として存在していたいわけではないのです。

 私は愛することは分かりませんが、友情なら分かります。

 父が消え、抵抗するものもなくなり、ひとりで生活するようになり、孤独な場に立って、気がついたことは、世界に対して友情的に自己を組み立てることはそれでもなお可能だということです。

 具体的な友人に接すること、友人でない人に対しても、底には友情を静かに込めて接すること、それが例えば家族であっても、友情的になら生涯接し続けることが出来るということ。

 私は愛することは分かりませんが、理想的だと思う人の姿なら分かります。

 「元気出そうよ、ほら、落ち込んでいないでさ、前を向こうよ」

などと、ポジティブさを押しつけることは誰にでもできます。そうしてそれは多くの場合、人を嫌な気持ちにもさせます。

 そうではなくて、ポジティブなことも、人をけしかけるようなこともちっとも言わないんだけれど、その人と一緒にいると、気がついたら自分も知らず知らずのうちに前向きになっている。決してはしゃいだり、無理して明るく振舞っている訳ではないのだけれど、その人と一緒にいるとなんとなく自分も素直に明るくなってしまう。そういう人のことを、私は理想的だと思うし、一番格好いい人だと思うのです。

 ですから私はこれからの人生、家族や愛は分からないけれど、友情は分かる人間として生きていきます。

 人に押しつけることはないのに自然に周りの人をポジティブにさせる、静かでやわらかく強い人間を理想として、少しでもそういう人に近づこうと思って生きていきます。

 

 私の世界には、愛を知る人の喜びは存在しないかもしれません。

 しかし、私は理想を持っています。

 友情的に存在するという、静かな可能性も持っています。

 持っているものを十全に生かしていけたらなと今は思っています。