死んだ人と話す、
本は、
しかしその人が生きているときに書かれたもの、
もの書く人が、
皆同じかは知らない、
ただ、
生きているときは、
現実の社会のなかで起こること、
人との関係のなかで生まれること、
それに比べて、
書くことがとても頼りなく思える、、
全くたいしたことではないようにも思える、
なにをやっているのだろうとも思える、、
ただ、
死んだ人にどうやって私たちが出会うかといえば、
書いたものを通してなのです、
その人がいきいきと生活していたり、
現実の社会のなかで様々な出来事に遭遇していたり、
という生そのものを、
私たちは、受け取れない、
あるいは間接的にしか受け取れない、、
人が、
生きているとき、
こんなことがなんになるのだろう、、
こんなことをしていて、
一体全体なにになるのだろうか、
と思っていたものの方、
つまり書くことの方が、
通路を作っていることにいつも新鮮に驚きます、、
私はこの、
なんだか分からない頼りないものに、身体を運ばれて、
今日まで生きてきています、、
生が、
二重になっている気がする、ということを、
前に書きました、、
書くことから私が受け取ってきた、
その様子をじっくり観察すると、
おそらく、
書くことは、
生きながら、
死後の生を少しずつ先取りすることなんだろうと、
そういう風に思います、、
書かれたものは、
基本的に死んだあとに読まれるべくあるものなのだ、
だから、
私は具体物として現実の生を生き、
一方で、
書くことにより私の死後の生を、
せっせと作っている訳ですから、
生きていることが、
二重になっているように感じられるのは、これは当たり前のことです、、
というか、明確に二重なのです、、
愛していて、
しかしそれ自体がどこか少し遠いのも、
それで普通なのかもしれません、