<2997>「死後の生を作る作業」

 死んだ人と話す、

 本は、

 しかしその人が生きているときに書かれたもの、

 もの書く人が、

 皆同じかは知らない、

 ただ、

 生きているときは、

 現実の社会のなかで起こること、

 人との関係のなかで生まれること、

 それに比べて、

 書くことがとても頼りなく思える、、

 全くたいしたことではないようにも思える、

 なにをやっているのだろうとも思える、、

 

 ただ、

 死んだ人にどうやって私たちが出会うかといえば、

 書いたものを通してなのです、

 その人がいきいきと生活していたり、

 現実の社会のなかで様々な出来事に遭遇していたり、

 という生そのものを、

 私たちは、受け取れない、

 あるいは間接的にしか受け取れない、、

 人が、

 生きているとき、

 こんなことがなんになるのだろう、、

 こんなことをしていて、

 一体全体なにになるのだろうか、

 と思っていたものの方、

 つまり書くことの方が、

 通路を作っていることにいつも新鮮に驚きます、、

 私はこの、

 なんだか分からない頼りないものに、身体を運ばれて、

 今日まで生きてきています、、

 

 生が、

 二重になっている気がする、ということを、

 前に書きました、、

 書くことから私が受け取ってきた、

 その様子をじっくり観察すると、

 おそらく、

 書くことは、

 生きながら、

 死後の生を少しずつ先取りすることなんだろうと、

 そういう風に思います、、

 書かれたものは、

 基本的に死んだあとに読まれるべくあるものなのだ、

 だから、

 私は具体物として現実の生を生き、

 一方で、

 書くことにより私の死後の生を、

 せっせと作っている訳ですから、

 生きていることが、

 二重になっているように感じられるのは、これは当たり前のことです、、

 というか、明確に二重なのです、、

 愛していて、

 しかしそれ自体がどこか少し遠いのも、

 それで普通なのかもしれません、