【ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)/村上 春樹】物語は完結した。完結したがしかし、謎は深まった。なぜ、このようなエンディングだったのか。生きていくために何を絶たなければなら… → https://t.co/5qJHFFhBTY #bookmeter
— yutaro sata(1992-2092) (@soudaroune) 2023年1月31日
『ねじまき鳥クロニクル』を読み終えた。
しかし何かが分かったかと言えば、そうは言えないような気がする。謎がとても多かった。
例によって感想を書くので、まだ読んでいない人には注意してもらいたいのだが、しかし、ネタバレと言っても、一体何を書いて、何を明かしたらネタがバレたことになるのか、自分でもまだよく分かっていない。
感想を連ねれば連ねるほど、何かが明らかになるのではなく、逆にその謎を深めることになるのかもしれない。
・井戸の底の謎
間宮中尉は、中国大陸で、井戸の底に置き去りにされ、そのときに受けた太陽の強烈な光により、何かを掴み、生が失われざるを得ない境地にまで至った。その後間宮中尉は助かって、日本に戻って来、生活をする訳だが、まるで生きていないのと同じであったのだと。あの光を浴びたときに私はもう死んだのだと。
主人公岡田亨は、井戸に、井戸の底にこだわる。間宮中尉が掴んだものを、別の時間に別の井戸で同じように掴もうとする。
・名前の謎
主人公の周りには、冗談みたいな名前の人が集まってくる。マルタやクレタ、ナツメグやシナモンなど。
しかしこの人たちのこの冗談みたいな名前は本名ではない。この冗談みたいな名前は別になんでもよかったりするように見える。
反対に、固有名みたいなものは、徹底的に隠されていたり、隠されていないまでも、剥がされていたりする。クレタという冗談のような名前でさえも、時に剥がされる。いや、剥がされなければならない。
大事なのは、皆に冗談みたいな名前がついていることではなく、負の記憶、意味を持った名前は是非とも剥がされなければならないということの方なのではないだろうか。
物語のなかで名前を捨てることは新しい出発を意味したりしている。
反対に、戦争が終わってもう40年ほど経っているのに(このお話の舞台は1984年。これはまた別の話かもしれないが村上さんが1984年にこだわっているのは何故だろう)、間宮中尉は「中尉」という戦争の名前を背負ったままの人として現れる。
名前を捨てて新しい出発が出来ず、死んでいるのも同然の状態で戦後を生きなければならなかったのを表すように、間宮中尉は中尉という名前のままで存在している。
・綿谷昇の謎
主人公の義理の兄、主人公とは真反対の人間として描かれている。
夢想的、無感的、現実が溶けていくような曖昧な世界にいる主人公。
理路整然として、クールで、固い現実のなかに生きているように見える綿谷昇。
この二人は、互いに憎み合っている。一方が存在すれば、他方が存在できないぐらいの関係のなかでお互いが生きている。
主人公も、まだ対立が決定的でない段階では、ペットの猫にワタヤノボルという名前をつけたりして(カタカナにするというのも一種の固有名の剥がし方だろう)、相手を、相手の知らないところでからかっているのだが、対立がついに決定的になると、そのカタカナのワタヤノボルという名前さえ剥がさなければならないこととなる。
何故、この二人は決定的に対立するのか。
・戦争というテーマ
この本のなかで戦争は大きなテーマになっている。そして、主人公や綿谷昇は戦後すぐぐらいの生まれである(主人公は1954辺りで綿谷昇は1947辺りか)。
とすると、この2人にとっては、戦後をどう引き受けるかということが当然大きなテーマとなったはずである。
主人公は、間宮中尉の体験の後を追いかける。強烈な光によって何かが完全に焼き払われ、固有名というものがそこで意味を持たなくなってしまうような、そうして名前を剥がして、新しい冗談みたいな名前になって、固有名というものが全く意味を持たない場所、そういう場所に立って生きていくことが真剣に戦後を引き受けることなのではないか、とでも言うように(主人公は先行世代のものに対して抵抗感がある。それは固有名であり、固有名であるということはつまり歴史を持つからではないだろうか)。
反対に綿谷昇は、自分の名前というものをどんどん打ち出していく。自分の名でテレビに出る、物を書く。それにとどまらず、おじの綿谷議員の地盤を受け継いで選挙にまで出る。冗談みたいな名前の入る隙などどこにもなく、固有名、歴史のなかを真っすぐに進んでいこうとする。それが綿谷昇なりの戦後の引き受け方なのではないか。
主人公からすると、綿谷昇のような引き受け方はあり得ないことだし、綿谷昇からすれば、主人公の引き受け方というのは絶対に容認できないことになるだろう。
どちらの引き受け方が正しい/間違っているということは出来ないが、戦後を生きる態度として、ちょうど真反対の二人の対立は、どちらかを消すところまで行かなければならないほどに激しくなる。
主人公は綿谷昇の言説にイライラしている。それは、固有名はあのときあの光によって剥がされて、今は何もない、冗談みたいな世界なのに、そして事実綿谷昇の言説も、それに呼応するように何らの世界観も持ち合わせていないのに、綿谷昇は世界が冗談みたいで、空っぽであることを拒否して、あくまでも固有名にこだわり、いつまで経っても出発しない人に主人公からは見えているからではないか。
主人公の世界は壊れた。壊れ切った。ここで壊れ切ったことで、主人公はまた立ち上がり、新たな出発を迎えることが出来たのだろうか。