私がアニメーションダンスに出合ったのは確か高校時代。
David Elsewhereやひとりでできるもんに大きな影響を受けた。
アニメーションダンスの魅力的な所は大きく分けて2つある。
1つは、「気持ち悪い」という表現が、プラスの意味を持つこと。
いかに気持ち悪く動けるかが勝負みたいなところがある。それがなんとも魅力的だ。
もう1つは、身体変容的な表現であるところ。
「これが人間の動きか?」という場所を目指してダンスが組まれているところに大きな魅力がある。
個人的な話だが、私はあんまり上手いダンスとか格好の良いダンスというものに興味を持てなかった。それよりも、見ててぞわぞわするような、身体のなかを変な線が走るようなものが好きだったので、見事にアニメーションダンスの世界に嵌まり込んだ。
上手いかどうかよりその人の身体変容の独自性の方に私は重きを置く。
踊りを見ただけで、「ああ、この人の踊りだよな」と分かってしまうような。
さて最近は、そういうアニメーションダンスの興奮に近いものとして、舞踏があるのではないかと思い始めた。
「気持ち悪く」、「身体変容的」で。
直近のきっかけは「眼窩裏の火事」展にて、大野一雄さんを扱った作品に打たれてから。
もう少し遠いきっかけを辿ると、大学時代。
そこには井上摂さんという、「舞台芸術」を操る、黒ずくめの魔女のような人がいて。
シニフィアン/シニフィエという呪文を(大学生当時はその言葉の意味が分からなかったので本当に呪文に聞こえていた)つぶやき、
同じ振付を延々と繰り返すような、前衛的なダンサーや舞踏家の映像を紹介していた。
私はその当時そういった踊りの世界を、ただ分からないものとして眺めていた。
おそらく、授業が終わればすぐに、他のことを考えていたはずだ。
それが、こんな場所に生きてくるとは、全く思いもしなかった。
今の私にはそういう前衛的な舞踏の世界が、分からないまま、「気持ち悪い」まま、徐々に浸透してきているのを感じる。
時間は私のなかで何を起こしているのか。
何か公演を見に行きたい。