<2377>「府中市美術館にて『眼窩裏の火事』を見て来ました」

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 『道草』という映画を見た帰りに、どこか駅の広告か何かで見つけて、今日行きましたね。2月26日までありますので是非どうぞ。

 

 いやあ、ちょっとすごいですね。

 私は大野一雄さんや川口隆夫さんを対象とした作品群にやられてしまいました。

 特に3-14ですかね。大野さんが寝たきりになっている姿の作品の前に立った時は、脳がグラグラと揺れて仕方ありませんでした・・・。

 

 ショップに大野さんの、『稽古の言葉』という本があったので、買いましたね。いやあ・・・。

 

 全体を通して、この皮膚の裏の、内組織というか、内組織があらわれる場所としての死、がどの作品にも濃く漂っていて、とても生々しいと同時に、皮膚の内側、死のそばっていうのはなんだか汚れていて、しかしその汚れに対して、私は懐かしいという感覚をどうしてか抱きました。懐かしさとしての汚れ、というか。汚れはどこまでも懐かしくて。

 

 死の手、あるいは死の寸前の手っていうのは、どうしてあそこまで生々しいんでしょうか。そこへ来ると反対に、生きていること、今のこの手が少しも死を感じさせないこと、そのアンリアルさはなんだろうか、生きていて、瑞々しいことのどうしようもないアンリアルさはなんだろうか、と考えてしまいました。

 

 私はダンサー、舞踏家の方たちが、不自然に思えるほど身体を削っていく、つまり極限まで細くしていくことの意味がよく分かっていなかったんですが、生の身体のアンリアル、その否定、克服、死への接近、肉薄、という流れで考えると、少しはその身体の持って行き方、動機みたいなものを掴まえることが出来るのかしら、と思いました。なんで私の手は生々しくないのか、なぜ生は生々しくないのか、生きていることはなぜ生々しくないのか、その問いの形としての身体だと考えれば・・・。