あるときは水族館。
あるときは母親の介護。
あるときは農作業。
あるときは子どもへの指導。
理屈で持って、スラスラと淀みなく言語を伝えればそれで十分な場面は世の中に多数存在する。
特に、人間の、それも成人同士であればそれで何の問題もないことも多いだろう。
ただ、人間ではない生物と向き合い、ほうけて現実面から剥離しかかる親と向き合い、作物と向き合い、まだ生を享けたばかりの子どもたちと向き合うとき、ただ理屈をそのままに通そうとすれば、お互いに困惑することになろう。
何か別の方法が必要だ。
そういうとき、ダンスが、ひとつの通路に成っている。
言葉では、あるいは言葉だけでは近づけない対象に、ダンスという別の軸で、接近する。
村田香織さんは自身の身体をそのように仕上げ、常に準備しているように思える。
対象と私とは、どちらも具体物だ。
だから、身体の波の打たせ方を相手に合わせ、また、私の打ち方に合わせてもらうことを相手に要求することにより、私と相手とは同じと、違いとをより精確に認識することが可能になる。
ああ、あなたはこういう身体なのですね。
ああ、あなたはこういう波なのですね。
水族館で働く人々は、日々、人間とは異なる生物とともにいる。
そうした生物との共通項は、生きているということ。
生きているということは、波を打っているということ。
波を打っているということは、そこに合わせることが可能となる、ということ。
不思議なことに、この、ダンスというコミュニケーションに段々と習熟してくるにつれ、水族館の人々は、言語を用いたコミュニケーションまで、飛躍的に上達していっているように見える。
多様な波に対応するため、ダンスには、必ず前段階としてストレッチがある。
まだ知らない場所に、私の身体が届きますように、という、静かな願いを込めて。