自分がいつ詩に出会ったのかを考えてみた。
明確に意識して出会ったのは、中学生のときの相田みつをさんだと思う。
親にどう説明したのか、何を話したのかも憶えていないが、中学生の時ひとりで、国際フォーラムの美術館に赴いたはずだから、相当確かな出会いだったのだろう。
相田みつをさんの詩は、生の底から人間の姿をあたたかく支えるような様子をしているのだけれども、私は詩世界に、相田みつをさんを入り口にして、現実の否認、現実の逃避先として出会っていたのだ。
作風と出会い方とが必ずしも一致している訳ではないという不思議。いや、相田みつをさんも詩人であるから、表面にあらわれていないだけで、その底にやはり否認があり、それを私は感じ取ったのかもしれないが。
書く世界、特に詩の世界というものは無に属するものであるだろう。
しかし、それに底支えされて運ばれてくる私のような命もある。
無によってしか、否認や逃避によってしか、運ばれない一時期、あるいは全人生というものもあり得る。
意味があるという明るい希望の光だけでは運ばれえない生が。
そのために無の世界はある。
私は臆病者だから、自殺というのは割合に考えないのだけれども、
生を生で無くしてしまおうという冷たい野心のようなものはまだ随分若いころから持っていたのかもしれない。
それでしか繋げない命のために、その野心を。