シラスでつちやさんの放送を見、久しぶりにこの事件のことを思い出した。
当時、この事件のことを何か現実感の乏しい、不思議な現象として受け止めていたことを想う。
放送を見ると分かるように、加藤さんの生涯は暗い。
母親からのあからさまな虐待があり、人との関係の深め方が分からず、突然キレて暴走するような人間に育ってしまう。
この放送では、中島岳志さんの本が土台になっているのだが、このような加藤さんの生い立ちがとても丁寧に記されていて、辿りやすいと感じる。
そのうえで、ちょっと驚いたのは、
「ああ、こういう生い立ちだから、無差別殺人という帰結を迎えたのだな」
という感慨が、少しも私の中に出てこないことだった。
それは、いわゆるありがちな、
「どんな暗い人生であったとしても、人を殺してはいけないんだぞ」
という道徳的な感情からそうなったというわけではなく、ただ、現実の、生活の線から真っすぐ辿ってはいけない場所、延長線上ではない場所に急に、空白を飛び越えたかのように無差別事件というものが浮上してくるように思えたからなのだ。
この放送内で一番興味深かったのは、加藤さんが事件を3度断念して、4度目に実行した、という部分だった。
私の関心は、全てここにある。
何故、3度断念されたものが、4度目に可能だったのか。
その飛躍を可能にさせたものは何か。
そして事件を起こした当人は、その飛躍そのものを反省することは可能か。
可能ならばいかにして反省をすればいいか。
その飛躍に対する反省(もし可能ならばだが)を、私は直接的な反省と呼ぶ。
何故それを直接的と呼ぶかと言えば、この飛躍するか否か、断念するか否かが、人を一般人か犯罪者かに分けるからだ。
対して、生い立ちや性格、周囲の環境に対する反省を、間接的な反省と呼ぶ。
それは、事件の成就というものに、影響しない訳ではない、むしろ大いに関わるものでありながら、それがあったがゆえに、あるいはなかったがゆえに犯罪に到ったと直に線で結ぶことが出来ないからこそ、間接的なのだ。
もし、生い立ちや性格、周囲の環境が直接の原因であるとしたならば、同じ境遇に置かれ、しかしながらそういう犯罪には繋がらない人々、むしろそちらの方が多数である人々のことはどう考えたらいいのだろう。同じ因子を持っているのだから今は一般の人となんら変わりがないけれども、いずれは犯罪を起こすだろう人々だと考えていいだろうか。
そんなはずはない。そういった思考ないし視線は端的に暴力であるだろうし、現実認識としても間違っていると思う。
難しいのは、環境などの間接的な影響の大きさは認めながら、加藤さんがこのような事件を起こしたということの責は、直接的な飛躍、つまり事件を起こそうとする段階から、実際に事件を起こすところにまで至ったこの飛躍に限定していかなければならないというところだと思う。
もちろん、だからといって間接的な反省が無意味かと言えば、そんなことはない。むしろ大いに意味があるし、直接的な反省がはたして可能であるかどうかというのを鑑みると、環境要因から反省して社会を改善していくという方法しか取り得ない部分も大いにあるのだろうと思う。
つちやさんも結論としては、加藤さんがずっと彼女を欲しがっていたので、どこかで彼女が出来ていればこんなことにはならなかったのじゃないか、というところへ来ていた。それは、当たり前のようだけれど正しい結論だと思う。間接的な影響でも、そこに決定的にポジティブなもの、決定的でなくともかなりポジティブなものがあれば、飛躍のとば口に立つことすらなかったのかもしれないのだから。
社会運動として、虐待される子どもを減らすとかが持つ意味、それが結果的に事件を起こさないことに繋がったというのは、起きていないことなので評価をするのが難しいというか、不可能になる部分もあるとは思うのだが、それでも活動の持つ意味の大きさは計り知れないほどだと思う。そういう貢献というのは本当に見えにくいものではあるが。
ただ、では現在、飛躍のとば口に立っている人が、
「私も同じような環境の下で、生きてきた。だから同じように犯罪を犯しても、止む無しだよね、しょうがないよね。」
と言って、その後の飛躍を遂げたとして、生い立ちの暗さが、原因と呼べるかどうか、というところには、最後まで引っかかる。
私は2008年当時、事件の報を受けて、
「これは現実内の出来事ではない」
と思った。多分その、これは現実からはみだしている、というあのときの戸惑いを、事件前に3度断念していた加藤さんも同じように感じていたのではないかという気がしてならない。
生い立ちが暗く、こんな人生は、と思念することも現実の線の上のことであり、
なにもかも上手く行かない、めちゃくちゃにしてやりたいと思念することも現実の線の上のことであり、
ナイフを用意することも、トラックを用意することも、現場に向かうことも、全部、現実の線の延長上にあったことだろうと思う。
だからおそらくはそこまでは、スムーズに事が運んだに違いないと思う。
でも、なぜか、いざ実行に移す段になったとき、そこから先のことだけは、現実の線の延長の先になかったのではないか。
「私はこういう経過をたどって来た。だから帰結はここになる」
と、スラスラと説明できる先として、この帰結は存在していなかったのではないかという気がするのだ。
だから、3度も断念して、4度目も、もうやめようかと思うところまでは来ていたはずなのだ。
この先が、あまりに現実的ではないから。
線の先に見えている光景ではなかったから。
しかし結果はその4度目に、ぐいとこの空白を飛び越えてしまう。
この、飛び越えるということを可能にしたものは一体何だったのだろう。
この、空白を飛び越え、現実の線の延長ではない場所に出る行いが、無差別殺人というおよそ理解不可能な帰結を迎えるというのはある意味で当然であるというように感じる。辿れるものなど何も持ち合わせていない。
しかし時として人間はそういう場所に出てしまう。それが一番こわい。
それに比べると、犯人の動機の説明とか、カメラに向かってにっこり笑ってみせるとかの類いのこわさは実はなんでもない。
おそらく人はこういう場面でこういうことを言われたら、見させられたら、きっと怖がるだろうな、という論理の枠内でしっかりと行われていることだからだ。
同じように、
「俺はいざとなったらやりかねませんよ」
のような、予告じみたもの言いも、圧力を感じている人間が取る対処として、現実の線の枠内で処理できるものだから、嫌だとは思えどそんなにこわさはない。
本来なら出られないはずの場所、現実の延長ではない場所にふっと出られてしまうという、そこだけがこわい。
こういった事件にメディアなどで接した者は、また事件の加害者は、この飛躍の反省を、直接的な反省を、何かの材料を頼りにして語り得るのだろうか。
いつもこういう事件に接するたび、間接的な要因の説明、その影響力の大きさを確かめて、確かにそうだな、その通りだな、と一方で理解しつつ、何か大事なところに触れられないまま、語られないまま物事が過ぎていくと感じていた私は今、そんなことを考えている。