<1959>「声と左手」

 次から次へと鳴り、、

 今はどこなの?

 と、静かに言う姿、、

 私はどこか遠くから、

 ひとつのしるしを見て、

 ふらふらとここへ出てきた、、

 どこかから漏れてきて、

 私はいた、

 私は身体を持っていた、

 

 潜行的になったのはいつからだろうか、、

 複数の声が当たり

 (あ、なにか人を圧しようとする声に対して避けるような身振りでここへ抜けてきていた)

 私は目を覚ました、、

 誰かが多くのことを知っている、

 私より広い世界にいる、、

 不安で、

 左手なので、泣き出してしまった、

 そうか、いまは、そんなことは思わず、、

 外界には、物事には、形があり、特徴があり、

 私の身体にも、癖があり、

 その両者のあいだで、

 変形させられる私側が、

 妥協点を見つけて動いていくのは当たり前だろうと思うようになっている、、

 無理になんでも私の身体に合うようにしろ、と主張するのが自由ではないという気がする、、

 変形の可能性を静かに探るのは、

 悪くないのではないか、

 私を探るのは、、

 そういえば鋏なども、

 小さい頃は左利き用のものを買ってもらっていたが、

 その、買ってもらった鋏とともにいつも居られればそれで構わないが、

 そうではないので、社会にある鋏は右手で扱うものが圧倒的に多く、

 それに出っくわし、そのまま使わなければならんことも多いので、

 右手で使えるようにした方が良いよな、と判断し、

 鋏ならば右手で使うようにしたのでした、、

 

 字は右手で書くように出来ているんだよ、

 右手で書く人を想定して作られているんだから、

 右手を使わなきゃ、

 そう言われて私はボロボロ泣いていた、、

 それでは私が書いてきた文字というのはなんだったのだろう、

 でも今は別にそう言われたことも、

 泣いていたことも、、

 大した意味を持たないように思える、

 こうやってたまに思い出すときがなければ、

 自らが、左利きであるとかを忘れていることが多い、、

 字も左手で書いている、、

 今右手で少し書いてみようと思ったが、おそろしいほど書くという動きに乗っからないので多少驚いた、

 手が慣れて、鍛えられて来て、というのはなんでしょうね、、

 はじめは、左手のはじめはどこなのだろう、

 別にはじまりを知らなくても良いという気持ちがありながら。