<566>「歩行者の印象Ⅲ」

 「良い人、というのは権力の話だからあまり好きではないんです。単純な、退屈な、良い人の型、というものがあって、それに嵌まらなければ冷遇されたり排除されたりする領域がある。まあ、それは社会全体について言えることかもしれませんが・・・。それで、その領域で動こうと思う人は、各々一生懸命に、あるいは適度に、良い人の型通りの動きをする。そうして初めて、いやあこの人は良い人ですねえと認められ、ある程度快適に、その領域内で動き回ることが可能になる。良い人、良い人・・・って、その型通りに動かなければ平気で外へ押し出すのに、そんななかで達成されている良い人に何の価値がありますか。そう評する人も、そこに懸命に合わせる人も、精神の立派さ偉大さなどということなんて見ちゃいないし、目指してもいないんですよ。そういうなかでの、良い人、良い人の大合唱に、私は耐えられないんです・・・」

「はあ・・・。えーっと、それと観客の話とはどういう・・・?」

「一方で、こちらを見ている人がいる。こちらはこちらで、自分のためにやっているようでありながら、その実それが近しい人から遠い人にまで繋がって、刺さっていることを感じながら動いている。それは強いことですが、微妙なことでもあります。つまり、ちょっとしたことでそのバランスは崩れてしまう。

『何故だか分からないけども』

これを抜きにしてはいけないんです。これを抜きにすると、

『お前が見ていたって関係ない』

『なにを!? おれたちが見ていなきゃお前なんてなんでもないんじゃないか』

となってしまう。見る人がいてこそ、いや、やっている人間とお前と何の関係もない、という各々の構えが出てきてしまう。それで、操作しようとしたり、操作されまいとしたりという動きのなかへ落ちこんでしまうんです。だから、私は、何だか分からないけども、というものそのものを表情にするように努めているのです。その初期の衝動のなかに・・・曖昧さのなかに・・・」