<88>「誰のなにの説明でもない」

 活動志向や停滞、閉塞志向は身体のものであって、思考ではないのではないか、むろん、思考も身体から来るのだが、この意味は、身体そのものがそういう動きを初めから持っているということである。つまり私にはそのどちらかに親密さ、反発を感じたり、両方を斥けたり取り込んだりという態度の取り方があるだけなのではないか。経験だけで何かを説く、これはおかしい。経験はその身体、一回きりの二度と起こらない出来事に依存していて、つまり全く同じ(に思える)経験をしても、人によってそれは全く別の顔を見せることがあるのだし、それを説かれる当の人物は、これまた全然別の人なのである、別の身体を持っている。では、経験に拠らないで説く? これもおかしい。何ら身体的基盤を持たない話はどこに着地することも出来ない。つまり両方を含めて語ることが大事、という訳でもない。経験に拠るものと拠らないものを容れて、バランスを取りながら、ではないということ。その人が何かを語り、おそらく他者にも通じていく、その中に、そういえば経験から来たものであったり、そうでないものがあったり、また無数の要素が、よくよく見てみれば含まれていたということがあるだけ、尤も、それは意図的にこちらで分ける作業をするから一応の痕跡を見ることが出来るだけであって、そのごちゃ混ぜはそのままだと分かれてはいない、つまり経験から来たもの「そのもの」というのはどこにも含まれてない。じゃあ、これは誰の何の説明だと受け取ればいい? 説明だと受け取らなければいい。