<89>「時間はどこ」

 時間というのは現在だけに関わりのあるものではないか、1秒前の自分が既に過去のものとなる、という考えを疑いもなく容れてきてしまったが、流れ、変化するという事実と、同一平面上(球面上か?)に在り続けるということを一緒に考えるのが難しい。変化の痕跡が、記憶だけでなく全て物理的に残っていて、だんだんだんだん積み重ねによって大きくなっていくような生き物として存在出来ていたとしたなら、まだそのふたつを同じにして考えることも容易かったのだろうが、残念ながら、流れるものは記憶に残りこそすれ(残らないものもあるだろうが)、痕跡が無くなってしまうものも多い。それで、過去という概念があると非常に便利だし、ただの妄想とも思われない、確からしい記憶、物理的な痕跡を元に立ち上がる過去というもの、しかしそれは確からしいし、その経験を通ったことが本当でも、描出能力、記憶に留められる、まるでシャッターを押したようにあるいは映像を撮ったように留められる記憶力を土台にした描出能力にほかならないのであって、それは現実物ではあり得ない(経験がではなく過去が)。ひょっとすると現在、只今ということを想定していることが間違いの始まりなのかもしれなくて、つまり、

「今の今」

という言葉を置くと、そこが中心点になり、それより1秒前ならば過去、1秒でも先なら未来というように、その線が中心点からそれぞれ左右反対方向にぐんぐん伸びていって・・・ということがどうしてもイメージされる。しかし現在というような中心点は置けないのではないか、何故なら現在しかないからだ(すると、現在という観念がまさしく点と結びついているのならば、現在などというものは存在することが出来ないということになる)。中心というのは同時に中心でないものがなければ決まらないのではないだろうか。100m走を行うとする、スタートして10m地点に達したものとする、その瞬間に、0m地点のところにいた、過去の私というものが構成される、それは変ではないかということ、ただ動きがあっただけではないか。

 時間というのが、1分や1秒ではなくて、明暗や寒暖差などで思い出されるということを考えていると、時間というのは濃淡なんだと思えてきたが、場所は同一で(つまり過去という平面、現在という平面、未来という平面があって、ズレるように違う平面に移動しているのではなく)、状態は変化しているという現実に、時間を見たのがそもそも描出だったのではないか。変化するということに、時間はぴったりくっついてしまった(ように見える)、しかし、もしかしたら、変化するということと、時間が経つということは、関わり合いのないことかもしれない。あるいは時間というのは、過去ー現在ー未来という線で表されるものではなく、色の変化なのだと考えてみれば少しは調和してくるのかもしれない。時間の話をしていて、どうも時間というのはないような気がするという体たらくになってしまったが、そんなことはよくて、流れる、変化はするが、他の平面に移る訳ではなく、それは同一の場で起きているという(そうでなければ家に帰ってこれない)、現実はどうもそうであるように見えるのだが、理屈でいくと、特に過去を導入するとよく分からなくなるようなことを、続けて考えてみるより仕方がない。苦肉の策としての過去、その他の策はないだろうか、というのも、10m地点に現在の私が在り、ということはその関係からして「過去の私」が0m地点にいたのだと考えていくのは、それに頼ってきたにせよどうもあまりにお粗末な気がするからなのだ。