<1366>「私しかない」

 「私ばっかりが/私だけがなぜ苦しい」

という言、

「苦しいのはあなただけではない」

という言の、その両者に不正確さ、違和感を持つのは何故だろうか。

 それはどちらも特定個人/具体的なひとりの人間 対 その外側に仮定された人々全員という形を取っているからだ。

 

 私が話すこと、及び、私に向かって語られることが、特定個人 対 外側としての皆、という話法を越え出ていないとき、なにか収まりの悪さ、いまいち言がすっきりしない感じを得る。

 

 皆、というのは抽象的なもので苦しみを感受出来る具体的な身体がある訳ではない。苦しみを覚えるのはいつも「私」である。が、そのことは同時に普遍的な性質を持つ。

 

 つまり、

「苦しいのはいつも私ばかりだが、それを特定個人に限定した意味で使うならば当たらない」

ということになろうか。

 「私」だけが苦しいのだが、私だけが苦しいという感じ方には普遍性があるのだ。

 

 「皆のことを考えなさい」

 「社会全体のことを考えなさい」

という言いに対する違和感も、普遍性はそこに存する訳ではないのではないかという考えから来る。

 私、という身体は外側をひとつのまとまりとして捉えてしまい(それはもちろん便利に作用するときもあるのだが)、それに対してひとり違和感を残すもの、あるいはそれが反転してこの違和感を覚える私側こそ本当だと思うこと、

 そういった「私」というもの、現在の感じ方にこそ普遍性があるのではないか。

 であるから、皆、とか、社会全体という、仮定のもの、具体的な身体を持たないものを思おうとしてもそれは上手く行かない。

 違和感と、取っ掛かりのなさを感じるだけだ。

 

 例えば、特定個人が、皆に向けておかしいと思っていることを主張する。しかし、上手く伝わらない。

 それは、人々が無関心であるから、とか、冷たいからであるとかが直接の理由なのではなく、「皆」というものを、自分の外にある抽象的な、仮定的なものとして捉える「私」という経験が無数に重なりあっているものが在り方としての自然だからだ。

 つまり、「私」という普遍的経験は、「皆」を、自分の外側にあるもやもやとしたものと考えている。

 どの「私」にとっても外側である「皆」は、だから動かないし、何もしないし、そもそも存在しないから、その音のなさに驚く特定個人は、いつでも「皆」を、無関心であるとか冷たいとか、あるいは阿呆だと自由に決定することが出来る。

 そういった物言いは、主張される内容ではなく、特定個人 対 外側としての皆という話法を抜け出ていないところで、いつでも自由に外側に烙印を押すことが出来るぞ、という形で行われているから不満だ。

 

 「私」しか苦しむことが出来ない、というのも総体は「私」という経験しか持っていないのだから。語られること、思考がそこまでのびきっていないもの、特定個人の話法を抜けきっていないものは、自分のそれであれ他人のそれであれ不満足を覚える。