あたしの只中の肌よ今はまた、
ここに声を渡す仕事を、、
私は果たしていくのか、、
私は細胞のことは知らないでいる、
細かい仕事のことは、、
しかし、あたしは、、
調子に乗るのではなく、よろこんでいく、、
ああ、
こんなところにも、
私の残したものがあった、
線があった、と、
順にひろっていく、、
対象と、
私とが、
徐々に育っていく、、
そういうものの読み方ができていたらいい、
わたしは、
楽しくて、
興奮して喋って、別れたあと、、
ほうけて、
あたしのなかには何が詰まっているのか、
まったくもって分からなくなることがある、
だから、
日常の全てがそれでは、いけないのだと思いますが、
しかしまた、、
あたしが一時空白になるような、
楽しい時間を経て、、
日常へかえってくる運動の、
そのうねりは、
生きていくということをとても活発にします、
とも思いました、、
脳が、
この歳ぐらいで、落ち着いてくるという話を、
前にきいたからかもしれません、、
しかしたしかに、、
私ははしゃがなければ人に応えられないのではないか、
という不安を取り下げることが、できるようになりました、、
そんなことを求めている人はいない、
むしろ、
穏やかに、
僅かに自己をひらくことで、、
粒を徐々にその対話空間へ、
浸透させていく、、
そのことで生きていることを確認できる場所が、
またひとつうまれること、
そのことを静かに見つめるようになれました、、
あなたが訳の分からない光をそこに見ていても、
それは私も同じなのです、、
本当のところは伝わりきらないと、
しかしそれは諦めにはつながらないのでした、、
個人しかいなくなった場所にも、
生きている者同士の、
声の掛け方があるはずなのでした・・・