<2647>「愛していないし、応えない~過去と治療4」

 事件の映像を見終わると、父は、私に向かい、

「お前も将来こういう犯罪者になりそうだな」

と言いました。

 周りの家族や親戚は笑っていました。

 

 私は、何がおかしいのかが分からなかったので、笑いませんでした。

 

 しかし、今になって思うのは、そんなことを言う父がひどかったであるとか、周りの笑っている家族や親戚がおかしかったとかいうことではなく、

「実の子どもに、しかもまだ小学校低学年ぐらいの、吹けば飛ぶような小さな子どもに、それだけの得体の知れなさ、気味の悪さを感じていたのは相当なことなのではないか」

ということでした。

 

 それは、普通に、親と子として、愛し愛され、自然に調和していけるはず、という父の期待や希望的観測が、この発言にいたるまでの日々、外れ続けてきたということを意味します。

 私は、もう遠くの昔ですから、記憶がそんなに確かでないとはいえ、幼少期において、父に対してそんなに震え上がらせるようなことを言っていた覚えはありません。

 ということは、父の感じた気味の悪さは、このテーマのなかで何度か取り上げている、「私という人間の応えなさ」

にあるのでしょう。

 

 

 一旦少し過去の思い出からは脱線していきますが、私の、負の部分のテーマと言いますか、生まれた頃から今に繋がっているひとつの大きな負の側面が顕になってきたと思われるので、確認します。

 

 皆さんも、生きていて、活動の場所を変えていくと、

「その活動場所によって出てくる個別的な問題」

と、

「どの場所に行っても必ず出てくる普遍的な問題」

との両方にぶつかると思います。

 

 後者の普遍的な問題は、人間あるある的なものもあれば、その人間の個性によって起こるものもあると思います。

 

 私が、どこにいってもぶつかる、おそらく私の個性に由来すると思われる問題は、

「全く人を愛していないし、人に応えないがために、自分の状況を勝手に苦しくしてしまう」

というものです。

 

 応えない、というのは、何かを訊かれても返事をしないとか、会話を無視するということではなく、自分という人間をまるで出そうとしないという意味です。

 

 それの何が問題なのでしょうか。

 実際、一人でいるときは、それは何の問題でもありえません。

 

 ただ、社会の中に出て、私という人間が何者なのかを問われ、一応答えはするものの、そこに、つまり他者に私が何者なのかを伝えるということに、全く熱が乗っていないのを感じると、他者は沈黙してしまいますし、私も、何故全くこの行為に気乗りがしないのかが分からず、沈黙してしまいます。

 

 そうです。私は決して意地悪をしたいとか、他人を馬鹿にしたくて黙っているのではなく、自分を出すことが必要とされる場面で、何故か沈黙の方へ向かって閉じてしまうのです。

 

 ですから、

「なんであなたは応えないの?」

という疑問を、言葉に出して、あるいは無言のうちに伝えられると、私は、

「そう、私は応えないのです。それは何故なのでしょう」

と、逆に相手の人に問うてみたい気持ちになります。

 

 しかし不思議なことですが、こういう文章の場面ではこんなに自然に、雄弁に、自己を開くことが出来るのです。

 それが何故なのかを考えると、対面の場で黙ってしまう理由が少しは解けるのでしょうか。

 

 私が文章というもの、それがまとまった本というものにこれだけ親和的なのは、静かに、自分のペースだけで人と付き合うことが出来るからです。

 文章というものは、他者が任意の場所で読むのをやめることができます。

 深く読むのも、浅く読むのも、急いで読むのも、ゆっくり読むのも、全て読み手の自由です。

 そういう、読み手が勝手に自分の自由を行使できる場であればこそ、そして読み手がどういう形でその自由を行使しているかを、私が確認し得ないからこそ、その場所では私も自由に語り出すことが出来ます。

 それに反して、対面の場では、よほどの勇気がない限り、相手の話を急に断つことはできません。

 ですから、私は、話し始めようとしても、

「聞き手はもしかしたら今すぐにその話を中止してほしいと思っているかもしれない。しかしそんな態度を出すことはマナー違反なので、するべきではないと思って黙って聞いているのかもしれない。」

という意識が常にちらつき、興味を持ってきいているかどうかの差が図れず、すぐに沈黙してしまうのです。

 

 しかし、私にはまたこういった経験があります。

 私に向かっていろいろ自分のことを話してくれる人がいます。

 そして、その話を聞いている最中には、あまり面白くないなとか、退屈だなと思ったりすることも当然あります。

 ただ、その話が終わった後、しばらく月日が流れると、話の面白さなどとは関係がなく、その人が私に向けて自己を開示してくれたという事実が、私がその人に親近感を抱くのに一役も二役も買っていることに気づくのです。

 

 つまり、理屈で言えば、他者がそのとき面白いと感じているかどうかなどということは一旦脇に置いて、自己を素直に開示しさえすれば、他者との関係がより深くなるのだ、ということを、私は知らないわけではないのです。

 

 それでも私はやはり、対面の場では自己を開かないのです。沈黙するのです。

 

 これは何故なのでしょう。まだはっきりとした答えはありません。

 

 そこでまた過去に戻っていきましょう。

 私が親に対して否を突きつけることなど思いもよらなかったところへ。

 これもまた小学校の頃。2年生ぐらいでしょうか。

 発端は、週末、少年野球のチームの見学に行ってみないかと、父から誘われたことです。