私は言葉が止まる、、
しかし、生は、二重にも、三重にも、してありますから、
私は止まる、身体を見、
あ、応える方向へ、と、
自身の身体に、手を添へることができます、、
あたしは最初の振れ、
最初を起こす、、
身体が徐々に、遠方へ、遠方へと、
響いていくときの、立ち方、、
あたしは汗を流します、、
不気味なもののなかへ手を入れて、、
かきまわす、、
すると、
不気味なもののほとんどすべては、
私に食いかかる、ようなところもなく、
ただ、
静かにその場へ、淀んでいるだけでした、
かきましながら、
私は、身体が、流れだと、
感得する、、
そんな一地方に居ます、、
おそらく、
私のてらいも、、
私の拒否も、
沈黙も、
いやらしい心も、、
すべてが皮膚を通して、
まったくすべてが伝わってしまって、と、
そのように、、
考え出すのがいいと思います、、
あたしはだからどこか、
裸以上のものです、、
ここに、
あらわれたいだけ、あらわれてしまう、、
裸以上の、
皮膚のさわぎです、、
皮膚の内部へ、
湿った、
肉の部分へ入っていくことは、
何か、
肌が粟立つ必要の、あるものです、、
内部へ、しかし、
一手一手、進んでいくと、、
なにやら、
そこはあたたかく、
気持ちのよい場所なのでした、、
心の経験は、
全てこのようなものではありませんか、
だから、
森田正馬さんも、、
いやらしいものは当然いやらしいと、
認めるところから、ゆきなさい、
ゆきなさいと、
言うではありませんか、、
最初はどうしても粟立つのです、それはのみこむ必要がありそうです・・・